熊本市民が愛した“レトロ顔”が引退!「推し電」1位の名車、その激動の生涯! 福岡を支え、熊本を救った連接車の軌跡をたどる

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熊本市電の「5014号」が営業運転を終えた2025年2月、その歴史を振り返るとともに、5000形連接車が熊本の交通を支えた過程が浮かび上がる。高度経済成長期の福岡から熊本へと引き継がれたこの車両は、都市の発展と共に移り変わる交通事情に柔軟に対応し、市民の生活を支え続けた。特に連接車としての特性が、混雑解消や冷房車導入の効果と相まって、熊本市電の存続に大きく貢献したのだ。

デビューのキッカケは「朝鮮戦争」

西鉄福岡市内線、天神ビル(現存)前を行く1302号。のちに筑豊電鉄に移籍、2002号として2022年まで活躍した。(西鉄ニュースリリース「筑豊電気鉄道2000形車両運用終了!」より)
西鉄福岡市内線、天神ビル(現存)前を行く1302号。のちに筑豊電鉄に移籍、2002号として2022年まで活躍した。(西鉄ニュースリリース「筑豊電気鉄道2000形車両運用終了!」より)

 西鉄1000形連接車が登場したのは1953(昭和28)年だ。導入が計画された当時、朝鮮戦争が真っただなかだった。

 この頃、小倉市(現在の北九州市小倉北区・小倉南区)には米軍が駐留しており、戸畑市(現在の北九州市戸畑区)や八幡市(現在の北九州市八幡東区・八幡西区)などの工業地帯、さらに隣接する筑豊の産炭地は「朝鮮特需」で活況を呈していた。

 そんななか、北九州エリアを走る西鉄北九州線では乗客が急増した。そこで、当時珍しかった大型の連接式路面電車が導入されることになった。1000形連接車は各編成が2両1組で、2両とも同じ番号が付けられ、前後の車両はそれぞれA車・B車と名付けられた。

 北九州線1000形が好評だったため、1954年には沿線人口が増加していた福岡市の西鉄福岡市内線にもほぼ同型の西鉄1001形連接車が導入された。さらに1956年には西鉄グループの筑豊電鉄が一部開通し、北九州線から産炭地・筑豊方面への乗り入れを開始した。これにより、福岡県内各地で活躍の場が広がり、高度成長期の福岡の商工鉱業の発展に貢献した。乗客が増え続けるなか、1962年には北九州線にA車・B車の間にC車を挟んで定員を増やした1000形3両連接車が登場し、1967年まで増備が続けられた。この頃の北九州線では、輸送力確保のため「1分未満間隔」で運行されることもあった。

 福岡の高度成長を支えた西鉄1000形だったが、時代の変化は急速だった。モータリゼーションの進展とともに、福岡市内線は1979年までに地下鉄に置き換えられることになり、北九州線も国鉄(1987年よりJR九州)鹿児島本線の増発や新駅設置、沿線工場の合理化などの影響で、2000(平成12)年までに全線廃止となった。名物だった連接車も次第に活躍の場を失い、福岡県内に残ったのは筑豊電鉄に移籍した車両のみとなり、一部は広島や熊本へと移籍した。

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