東海道はかつて「軍用道路」だった! なぜインフラ整備は歴史から学ぶべきなのか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(1)
道路の基礎は「街道」にあり
日本は6世紀頃から、当時の首都である京都から全国へ続く道の整備を行っていた。この道が現在、私たちが「街道」と呼ぶ幹線道路の基礎である。
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1603(慶長8)年、徳川家康が江戸に幕府を開くと、日本の拠点は江戸へと移り、家康は日本橋から京都・木曽・甲斐(山梨)・日光・奥州(東北)の各方面に至る道をさらに拡充した。これが東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の「五街道」だ。
五街道という言い方は明治時代に入ってから生まれたもので、江戸時代は「道中(どうちゅう)」といわれていた。東海道と中山道は当時の言い方と同じだが、他は「甲州道中」「日光道中」「奥州道中」だった。
モビリティ業界が学ぶべき街道・宿場町の歴史
明治時代に入ると、街道に番号を付けて呼ぶようになる。東海道は国道1号線と15号線にほぼ相当する。中山道は17号線だ。
番号で呼ばれても、ルートが大きく変わったわけではない。日本の幹線道路は、何百年も前に造られた道をほぼそのまま踏襲している。また車がない時代は、荷車などに荷物を載せ人と馬で運んでいたが、人馬は疲弊する。最初から最後まで、同じ人馬をずっと使役することはできない。
そこで、人と馬を交代させるシステムが必要だった。これを「伝馬制(でんませい)」といい、人馬の引き継ぎである。引き継ぐ場所として発展したのが、宿場町だった。
宿場町は荷物の集積地でもあった。運ばれた物資は宿場町を経由し、脇往還(わきおうかん/五街道の脇道)を通って全国に運ばれた。現在も荷物の集積所は主要道路沿いに立地しているが、これもかつてのやり方に倣っているといっていい。
先人たちが考案し創り上げた流通・輸送システムは、現在の日本に脈々と息づいているのである。
何気なしに通っている道や町の成り立ち、由来を知ることは、交通・運輸・モビリティ産業で働く人たちにとって重要だろう。なぜなら、街道と宿場町は人と物の交流をうながし、日本を形づくるうえで大きな役割を果たしてきたからだ。昔と現代とを、時空を超えて結びつける架け橋なのである。