東海道はかつて「軍用道路」だった! なぜインフラ整備は歴史から学ぶべきなのか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(1)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

宿場町に見る過去の遺産

五街道の宿場町を全解説した「日本街道総覧」の小田原宿。江戸時代は小田原藩の領地で、藩主は大久保家。石高は約10万石。かまぼこなどの名産品は、藩にとって貴重な財源だったろう。個人所蔵(画像:小林明)
五街道の宿場町を全解説した「日本街道総覧」の小田原宿。江戸時代は小田原藩の領地で、藩主は大久保家。石高は約10万石。かまぼこなどの名産品は、藩にとって貴重な財源だったろう。個人所蔵(画像:小林明)

 東海道では、

・小田原宿(神奈川県)
・宮宿(愛知県)
・大津宿(滋賀県)

などが特に重要な宿場町だった。

 小田原宿は旧国名「相模国(さがみのくに)」にある。相模国は東に江戸を置く「武蔵国(むさしのくに)」、西に「駿河国(するがのくに)」に隣接し、関東と他エリアを結んでいる。その中核都市として、小田原は有数の交通拠点だった。

 小田原の重要性は、昭和に入っても変わらない。高速道路と新幹線で真っ先に建設・開通されたのは東名高速と東海道新幹線だが、小田原には駅とインターチェンジがある。当地が関東と関西を結ぶ交通の要所であることを物語っている。

 また、小田原の名産品といえば、かまぼこが有名だが、これは歴史が古い。江戸時代の天明期(1781~1789年)にはすでに商品化され、小田原宿に宿泊した参勤交代の武士に好評だったという。武士たちはかまぼこを地元に持ち帰り、さらに評判は広がった。かまぼこ製造・販売で小田原は潤った。街おこしの模範といっていいだろう。

 東海道で最大規模の宿場町といわれた宮宿と、琵琶湖沿岸の大津宿は、前者は美濃路(岐阜県大垣方面への脇往還)、後者は北国街道(北陸方面への街道)への分岐点だ。また、大津宿の近くには京都の伏見、奈良へ向かう脇往還も分岐していた。

 こうした分岐点を「追分(おいわけ)」というが、追分は各地方へ荷物を運ぶ中継地、つまり流通の拠点であり、人と物が行き交うという、地方が発展するファクターを、現在に至るまで途切れずに残してくれた。さらに宮宿は熱田神宮、大津宿は比叡山に近い。地の理を生かし、今も観光拠点として盛況だ。

 このように、東海道と宿場町には数多くの遺産がある。過去に学び、今後さらに育成・発展させていくことを考えるのも、モビリティ産業の役割ではないだろうか。そのヒントは、街道と宿場町が歩んだ歴史にこそ潜んでいる。

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