東海道はかつて「軍用道路」だった! なぜインフラ整備は歴史から学ぶべきなのか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(1)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

街道と宿場町が果たした役割

「東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立」。継立とは引き継ぎのこと。人足と馬が荷物を引き継いでいる様子を描いている(画像:国立国会図書館)
「東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立」。継立とは引き継ぎのこと。人足と馬が荷物を引き継いでいる様子を描いている(画像:国立国会図書館)

 東海道を例に、街道と宿場町が果たした役割を具体的に見てみよう。

 前述の通り、東海道の拡充・整備を指示したのは徳川家康である。浮世絵でもおなじみの「東海道五拾三(五十三)次」、つまり53の宿場町も、家康が命じて以降、順次誕生していった。

 箱根など、難所とされる峠が五つあるものの、太平洋沿岸の比較的平たんな道である。今に至るも主要幹線道路なのは、ルートの多くが沿岸部にあることと関係している。山岳列島の日本では、平野部は沿岸に集中しているからだ。

 東海道新幹線が愛知県熱田と滋賀県草津間を除き、ほぼ東海道に相当するルートを走っているのも、線路建設地が平たんな地にあったことと関係あるだろう。

 また、家康が東海道整備にいち早く着手したのは、関西に派遣した軍隊が素早く行軍できるようにするためだった。実は東海道は、そもそもは軍用道路なのである。

 徳川幕府が開かれた当初は、まだ戦国時代の乱世は終わっていない。そこで幕府は、道幅を場所によって最大約14mまで広げ、戦(いくさ)が始まった際には、速やかに軍が通過できるよう備えたわけだ。道の整備は、一面には戦争をにらんだものだったことも否定できない。

 江戸時代に入り世の中が平和になると、今度は参勤交代行列が街道を歩いたが、大名行列も武器を携えた一種の軍事パレードである。

 一方、参勤交代のような大人数での旅には、大規模な宿泊地が不可欠となる。そこで、宿場町には本陣(ほんじん)、旅籠(はたご)といった宿が次々と誕生していく。本陣は殿様や幹部が滞在する宿、旅籠は下級武士らの宿泊所だった。

 宿場には伝馬制が常時用意されていて、大名行列もここで人馬を交代したのである。

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