御茶ノ水が「80年代初頭」まで原宿より断然イケてた理由――自由と集中が生んだ都市文化とは
1970年代、御茶ノ水は“日本のカルチエ・ラタン”と呼ばれた。学生運動の熱が街を覆い、昼の文化が芽吹いた時代だ。1974年の女性大学進学率はわずか11.6%。それでも語学や芸術を学ぶ女性たちが街を彩り、原宿より早く“おしゃれの発酵”が始まっていた。昼に熟す都市文化の原点が、そこにあった。
学生運動がつくった都市の熱量

御茶ノ水といえば、東京でも指折りの学生街だ。中央大学、明治大学、日本大学、東京医科歯科大学、順天堂大学に加え、駿台予備校や研数学館も集まり、学生向けの定食屋や古書店が並ぶ街として発展してきた。中央大学の郊外移転など変化はあったものの、今も学生の姿が絶えない。
御茶ノ水は、JR御茶ノ水駅を中心に広がるエリアの通称で、行政上の正式な地名ではない。千代田区神田駿河台・外神田から、神田川を挟んで北側の文京区湯島・本郷南部までを含む。東京都区部のほぼ中心に位置し、古くから学問と文化の集積地として発展してきた。
もともと本郷台(湯島台)と駿河台は一続きの「神田山」と呼ばれる高台だったが、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の時代に神田川放水路と外堀が掘られ、現在のような渓谷地形となった。北側の高林寺の湧水を秀忠の茶の湯に供したことが「御茶ノ水」の名の由来であり、その逸話を刻んだ石碑が駅近くに残る。古くは「お茶の谷」にちなみ「茗溪(めいけい)」とも呼ばれ、筑波大学同窓会「茗溪会」や附属校の校歌にもこの名が残る。
江戸時代は武家屋敷が並ぶ静かな高台だったが、明治期以降は大学・専門学校が集まり、
「日本のカルチエ・ラタン」
とも称される学生街となった。現在も明治大学、日本大学理工・歯学部、東京医科歯科大学、順天堂大学などが立地し、学習塾・予備校も密集する。周辺には日大病院、三楽病院、杏雲堂病院など医療機関も多い。