「もう新宿に用はない」 立川が今選ばれる理由! 「住みたい街ランキング」急上昇も、裏で迫る人口減! この人気は持続可能なのか
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立川市は、中央線のハブとして高い利便性を誇る。都市機能も充実しているが、少子化や高齢化の進展により人口構造が変化している。北口再開発や南口の生活文化の融合が進む中、持続可能な都市設計が求められる。特に、子育て世代や高齢者への支援強化が今後の重要な課題となる。
「基地の町」からの脱却

終戦後、立川飛行場は米軍に接収され、立川基地となった。これにより、米兵相手の夜の店が増え、風紀が乱れた。しかし、立川市では基地の恩恵を受け、経済的に繁栄した。
一方、立川市が米軍の恩恵を受けるなか、周辺自治体では基地への反発が強かった。そのため、1960年代から米軍は横田基地への移転を始め、1977(昭和52)年に全ての敷地が返還された。
返還された広大な跡地を利用する際、立川市は単なる土地利用計画にとどまらず、都市のアイデンティティーを変える大胆なまちづくりを構想した。旧基地のイメージを払拭し、立川を「基地の町」から
「自立した商業都市」
へと変える意志が込められていた。市の基本構想には「中核都市立川にふさわしい中心市街地の形成」が掲げられ、駅前開発と既成市街地の整備が同時に進められた。
その第一歩として、1982年に立川駅ビル「ウィル」(後のルミネ)が開業し、近代的な駅前商業空間が登場した。1994(平成6)年には「ファーレ立川」が完成した。これは商業・業務複合施設のインテリジェントビル群で、109点のパブリックアートが街区全体に配置されるという革新的な都市設計が行われた。
ファーレ立川の登場は、物理的な再開発にとどまらず、立川という都市の精神的な変貌を象徴する出来事となった。
このように、米軍基地によって繁栄したネガティブなイメージから脱却することが、「住みたい街」としての繁栄の礎となった。過去の依存を否定することなく、依存から脱却して都市として自立した稀有な成功例である。