「もう新宿に用はない」 立川が今選ばれる理由! 「住みたい街ランキング」急上昇も、裏で迫る人口減! この人気は持続可能なのか
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立川市は、中央線のハブとして高い利便性を誇る。都市機能も充実しているが、少子化や高齢化の進展により人口構造が変化している。北口再開発や南口の生活文化の融合が進む中、持続可能な都市設計が求められる。特に、子育て世代や高齢者への支援強化が今後の重要な課題となる。
鉄道開通から軍都へ

立川市の発展は、1889(明治22)年に甲武鉄道(現在のJR中央線)が新宿と立川間に開通したことから始まった。当時は神奈川県だったが、1893年に三多摩地域が東京都に移管された。その後、1894年に青梅鉄道が開通し、立川市(当時は立川村、1923年に町制施行)は交通の要衝としての地位を確立した。
本格的な発展は軍都としての面が大きかった。第一次世界大戦後、飛行機の重要性に着目した軍部は帝都防衛のため飛行場の整備を進めた。立川市は、帝都に近く、鉄道が通っており、十分な土地も確保できるため、飛行場建設の好立地とされた。こうして1922(大正11)年に陸軍飛行第五大隊の基地として立川飛行場が設立された。以降、地域には航空工廠や研究所、石川島飛行機製作所(後の立川飛行機、現在の立飛ホールディングスが所有地を運営)などが集まり、一大軍事都市を形成した。
立川飛行場は民間企業も利用するようになり、東京の空の玄関としての役割も果たすようになった。昭和に入ると、中央線の電化により利便性が向上し、立川は「空都」と呼ばれるほど賑わった。1930(昭和5)年に発表された『立川小唄』は、サビの部分で常に「空の都よ、立川よ」と歌われている。この歌詞には、次の一節がある。
「東京ばかりか浅川青梅 五日市から一走り」
「汽車だ電車だ川崎からも 空の都よ、立川よ」
この頃、立川の交通利便性のよさは地元の誇りとなっていた。その後、空襲の被害を受け、戦後の立川市は「基地の街」として繁栄を迎えた。