「ドライブより安い!」 激安戦略で空を制した米ピープル・エクスプレス、なぜわずか「6年」で消滅したのか?

キーワード :
,
1980年代、米国航空業界を一世風靡したピープル・エキスプレス。低価格と独自の運営手法で業界を変革したものの、過度な拡大と不適切な合併が致命的な失敗を招いた。その栄光と挫折の裏に迫る。

採算割れ路線と低迷する収益

ロンドン・ガトウィック空港の ピープル・エキスプレス・ボーイング747(画像:Eduard Marmet)
ロンドン・ガトウィック空港の ピープル・エキスプレス・ボーイング747(画像:Eduard Marmet)

 しかし、ピープル・エキスプレスの勢いもここまでだった。

 市場シェアを追い求めるあまり、価格を採算割れレベルにまで引き下げ、収益率は次第に低下していった。特に象徴的な存在だったボーイングB747も、ロンドン線以外では「ロードファクター(座席利用率)が

「20~40%」

という低さだった。一般的に、ロードファクターは65~80%が採算ラインとされており、その低さがうかがえる。

 450席を備えたボーイングB747では約300人以上の乗客が必要で、相当なドル箱路線でないと採算をあげることはできなかった。そのため、B747は金食い虫となり、経営を苦しめる原因となった。ピープル・エキスプレスは機内で運賃を徴収していたが、自社のコンピューター予約システムがなかったため、旅行代理店は同社を利用できなかった。

 これに対し、アメリカン航空やユナイテッド航空などの競合他社は、自社の予約システムを充実させ、旅行代理店の信用を得た。旅行代理店という間接販売のチャネルを失ったピープル・エキスプレスは、毎日平均6000人以上の顧客を失ったとされ、経営に悪影響を与えた。

 また、ニューアーク国際空港の当時の状況も悪影響を与えた。同空港はふたつの滑走路が三つめの滑走路を横切る構造のため発着枠が限られ、さらに建物も古く、多くの乗客をさばけなくなっていた。

 競合他社の値下げ攻勢も相まって、1984年の最終四半期には初めて赤字を計上し、設立から4~5年を経過した時点で、かつて大手を脅かしたピープル・エキスプレスの経営は行き詰まりを見せた。

全てのコメントを見る