「水陸両用作戦」の真髄! 多様な任務に対応する圧倒的能力、それを支えるロジスティクス戦略とは
水陸両用(上陸)作戦とは
水陸両用(上陸)作戦能力は、戦争(紛争)のあらゆるスペクトラムに対応可能である。
すなわち、
・人道支援活動
・平和支援活動
・低強度紛争
・高強度の軍事作戦(戦争)
まで、継続的かつ圧倒的な能力を投射することができる。また、確固とした自己完結型の、そして前方展開の作戦基盤を提供できる。
さらに水陸両用作戦部隊は、陸軍と海軍というふたつの領域にまたがる境界線を主たる担当領域にしているため、それぞれの軍種が備えた能力を保持することになるとともに、当然ながら各種の航空機を保持する部隊は、空軍が備えた能力を保持している。
さらにいえば、自己完結性に加え、機動性、柔軟性、継戦能力を備え、均衡の取れた水陸両用作戦能力は、とりわけそれが適切な海軍力によって支援され、空軍力による支援が得られた場合、高い能力を備えた国家戦略のひとつの手段として運用可能になる。
この小論では、こうした水陸両用作戦におけるロジスティクスの重要性について考えてみたい。
水陸両用作戦の歴史
水陸両用作戦の定義にあまりこだわらずその歴史を振り返ってみれば、既に紀元前12世紀には古代エジプト王朝が、地中海の島々やヨーロッパ南部海岸に沿って居住していた「海の襲撃者(海の民)」の攻撃にさらされていたとの記録が残されている。
また、やはり紀元前12世紀に古代ギリシア人はトロイを攻撃する際(トロイ戦争)、海岸に拠点(ログメント)を確保する必要に迫られた――詳しくは映画「トロイ」を参照――が、これは紀元前490年にギリシアに侵攻したペルシア軍がマラトン湾で求められたことと同じであった(ペルシア戦争)。その後の古代ギリシア世界でも水陸両用作戦能力は最大限に活用されたが、紀元前415~13年のシチリア島に対するアテネ遠征軍の敗北は、ペロポネソス戦争での重要な転換点となっている。
さらに時代は下って、紀元前55年にブリテン島の住民は大規模な水陸両用作戦による最初の襲撃を受けた。古代ローマのユリウス・カエサルが自ら軍隊を率いて英仏海峡を渡って侵攻したのである。その後も数世紀にわたってブリテン島は、ヴァイキングあるいはノルマン人(北方民族)の襲撃にさらされた。
実際、中世ヨーロッパで水陸両用作戦を最も成功裏に実施し得た集団は、ヴァイキングによる北ヨーロッパ、西ヨーロッパ、地中海ヨーロッパ沿岸地域への襲撃であった。一方、東アジアでも14~16世紀にかけていわゆる「倭寇(わこう)」が活躍した。
また、カリブ海のスペイン領に対する1585~86年にかけてのフランシス・ドレークの襲撃は、イギリスによる水陸両用作戦の先駆けとなる事例であった。ドレークの襲撃は、同国によるジブラルタル占領(1704年)やワシントンD.C.占領(1814年)などの先例となったのである。