地下鉄は来ず、インフラが朽ちた街――高齢化率約6割、23区の“外れ”と化した「桐ヶ丘」という巨大団地のいま
1953年から続く桐ヶ丘の団地開発は約5000戸に及んだが、地下鉄7号線計画は1976年に中断され、街の将来像は大きく変わった。2020年には1丁目人口の58.9%が65歳以上となり、北区平均の2倍超に達するなど高齢化が進む。現在は再開発や商業施設整備が動き出す一方、交通網の遅れや人口流出が課題として残る。
軍事施設から巨大団地への変遷と地下鉄延伸計画

東京都北区の桐ヶ丘はもともと、陸軍の東京兵器補給廠の一部である赤羽火薬庫が置かれていた場所である。周辺にも陸軍関係の施設が多く存在していた。
敗戦後は米軍に接収され、引き続き軍事用途として使われた。朝鮮戦争やベトナム戦争の補給拠点としても機能した。周辺の軍施設を結ぶため、東北本線赤羽駅の北側から引き込み線が敷かれ、多くの軍需物資が運ばれていた。
その後、日本の国際社会への復帰や経済成長、ベトナム戦争以降の反戦の動きなどを背景に、米軍施設は段階的に縮小された。これを受けて、北区や東京都の主導で跡地の利用が進められた。
桐ヶ丘地区では1954(昭和29)年から跡地を使った団地の建設が始まり、多くの住民が移り住むようになった。さらに1958年には、隣接する西が丘地区の駐留地も返還された。
桐ヶ丘団地の開発が進められていた1962年6月、都市交通審議会の答申第6号で、目黒駅から赤羽近くの岩渕町までを結ぶ東京7号線(現在の東京メトロ南北線)の計画が動き出した。
これを受けて、帝都高速度交通営団(東京メトロの前身、以下営団とする)は同年10月16日、上大崎(目黒)から赤羽町(桐ヶ丘)までの22.5km区間について、地方鉄道の敷設免許を申請した。
都市計画上の起点は岩渕町に置かれていたが、車両基地は西が丘地区の返還地を使う想定であった。また途中の桐ヶ丘には駅を設ける計画が含まれていた。このため免許申請の区間は桐ヶ丘までとされた。
さらに、赤羽駅から西が丘の軍事施設へ伸びていた引き込み線については、そのまま7号線の車両搬入路として使う計画もあった。これらの構想により、桐ヶ丘は地下鉄の終点となる前提のもとで整備が進められ、東京でも有力な住宅地としての発展が見込まれていた。