戦国屈指の名将・上杉謙信 「義」に満ちた男は物流マンとしても一流だった!

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戦国武将の中で「最強」ともいわれる上杉謙信。その優れた手腕は合戦以外の場でも生かされた。謙信の「物流政策」に注目してみる。

「米どころ」は後世の話

北前船の模型。北前船以前も、日本海側の物流は盛んだった(画像:写真AC)
北前船の模型。北前船以前も、日本海側の物流は盛んだった(画像:写真AC)

 戦国武将の中で「最強の武将は誰か」と聞くと、上杉謙信の名を挙げる人も多いだろう。「義の人」ともいわれ、人気の高い武将の一人である。謙信といえば、「合戦上手」「義の人」といったイメージが先行しがちだが、戦国の世も現代も、経済は重要であり、謙信は領国経営でも優れた手腕を発揮した。今回は、謙信の「物流政策」に注目してみる。

 上杉謙信といえば、信濃の川中島で武田信玄と5回も戦い、関東管領(かんれい)という職務を全うしようと14回も関東に出陣している。それだけではなく、越後国内、さらには近隣の敵との戦いを繰り返し、その軍事費は膨大な金額に及んだと思われる。年貢や段銭(たんせん)、棟別銭といった税金だけでは賄い切れないのは、いうまでもない。

 現在、越後すなわち新潟県は、わが国有数の穀倉地帯として知られている。魚沼産コシヒカリはブランド米となっているが、上杉謙信の時代、越後はまだ「米どころ」ではなかったのである。

 謙信の最盛期の領国は越後・越中・能登なので、太閤検地終了時のデータ「慶長三年検地目録」でこの3カ国を見ると、
・越後 39万770石
・越中 38万298石
・能登 21万石
となっていて、合計しても98万1068石である。「100万石大名」といって間違いではないが、それだけであの膨大な軍事費を賄えたとは思えない。では、謙信の資金源は何だったのだろうか。

 一つは金山である。金山というと、すぐ佐渡金山の名が頭に浮かぶが、謙信の時代、佐渡はまだ上杉領ではなかった。謙信の頃稼働していたのは越後の鳴海金山(新潟県村上市)である。しかし、そんなに産金があったわけではない。実は、もう一つの資金源の方が主であった。それが「上杉謙信の物流政策」というわけである。

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