江戸のタクシー「町駕籠」 料金はいくら? どんなトラブルがあった? 知られざる歴史をたどる【江戸モビリティーズのまなざし】

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江戸の町で庶民が使った「町駕籠」は、現代でいえばタクシーであり、当時の一般庶民にとってなじみ深い交通手段だった。

「自由化」で町駕籠が繁盛

文化10年刊の『金草鞋 一編』に描かれた町駕籠(四つ手/画像 : 国立国会図書館)
文化10年刊の『金草鞋 一編』に描かれた町駕籠(四つ手/画像 : 国立国会図書館)

「えっほ、えっほ」とかけ声をあげながら江戸の町を行く駕籠(かご)。時代劇でおなじみだ。

 だが、ひと口に駕籠といっても、江戸時代は厳しい身分制度があったため、武士や庶民など階級別に乗るよう定められていた。

 まず、将軍家や大名が公的に乗るのは、駕籠とはいわず、「乗物」(のりもの)といって区別した。外見は黒漆塗り。現代でいうならVIP専用の高級送迎車で、豪華な装飾も施している。

 次に大名が御忍(おしのび)、つまり私的に外出する時に使う「御忍駕籠」や、家来が殿様の用事を言い付けられて出かける時の「権門(けんもん)駕籠」などがあり、このランクは、駕籠の名が付く、現代でいえばハイヤーのようなものだろうか。

 そして、庶民が乗るのは民間専用の「町駕籠」だ。町駕籠も豪商など富裕層が乗るものと一般町人用とは分けられ、前者を「宝泉寺(または宝仙寺)駕籠」、後者を「辻(つじ)駕籠」「四つ手(よつで)」などと呼んだ。

町駕籠のつくりは?

幕末の類書(百科辞典)である『守貞謾稿』に掲載されている四つ手(左・民間専用)と御忍駕籠(右・武家専用/画像 : 国立国会図書館)
幕末の類書(百科辞典)である『守貞謾稿』に掲載されている四つ手(左・民間専用)と御忍駕籠(右・武家専用/画像 : 国立国会図書館)

 四つ手の名称は、茣蓙(ござ)に「4本の竹」の支柱を立て、左右に垂れを付けただけの簡素な造りだったことに由来する。一方の辻駕籠は、辻はそもそも「つむじ」と読み、道路の十字路を指していたことに由来する。十字路で客待ちし、目的地まで運ぶ駕籠という意味である。

 今回は辻駕籠・四つ手を解説する。これは現代でいえばタクシーであり、当時の一般庶民にとってなじみ深い交通手段だった。今の読者にも、身近に感じてもらえると思う。なお以下、辻駕籠・四つ手を総称して町駕籠と記す。

 町駕籠は江戸時代を通じて常に繁盛していたわけではない。何度も規制を受けた知られざる歴史を持つ。

・元禄14(1701)年 江戸市中に3600丁(ちょう/駕籠の数え方の単位)を数えるほど盛んになる

・元禄16(1703)年 税を払えば営業してよいとする許可制を導入し、許可を受けた600丁に限定。その際、駕籠に認可を受けていることを示す焼き印を押すことを義務化

・正徳3(1713)年 さらに150丁まで減らす
(以上、『江戸町触集成』塙書房より要約)

 だが、3600丁を150丁に減らした結果、無許可営業が横行することになった。いわば白タクだ。駕籠の担ぎ手は当時の低層階級、日雇いの人々が多く、規制を受けて仕事にあぶれた者は、違法営業に走らざるを得なかったのである。

 そこで享保11(1726)年、無許可営業にも焼き印を押して認可してほしい、そうしないと仕事のない日雇いたちが犯罪に走りかねないと、奉行所に陳情書が出された。

 生活困窮者が増えて窃盗などが増えては、奉行所もたまったものではない。やむを得ず、元締(駕籠屋)が一定額の税さえ収めれば、「勝手に渡世(世渡り)してよい」と通達を出した。

 こうして町駕籠の営業は自由化され、江戸の町を縦横無尽に走り回るようになった。