戦国屈指の名将・上杉謙信 「義」に満ちた男は物流マンとしても一流だった!
戦国武将の中で「最強」ともいわれる上杉謙信。その優れた手腕は合戦以外の場でも生かされた。謙信の「物流政策」に注目してみる。
良港と越後上布

日本海側は、江戸時代、北前船の往来が盛んとなるが、戦国時代にも日本海側は物流が発達しており、越後にはいくつもの良港があった。謙信は、そうした港に出入りする船に入港税をかけていたのである。日本海舟運の掌握といってもいい。それだけではなく、越後の特産品としての越後上布(じょうふ)の移出管理を兼ねていたところに特徴があった。
謙信は、春日山城の外港としての直江津湊(みなと)と、日本海舟運の一つの拠点である柏崎湊を押さえていた。これらの港は、越前の敦賀、若狭の小浜などと結んで、最終的には京都に直結するルートとして重視されていた所で、港に出入りする船はかなりの数に及んでいたという。
しかも、越後は「越後上布」の産地だった。これは、麻布の上等な布のことで、青苧(あおそ)の繊維で織った布である。当時、木綿はまだ全国的に流通しておらず、麻布の需要が極めて高かった。そこで、謙信は青苧の栽培を奨励し、越後を青苧と越後上布の特産地に押し上げたのである。謙信の頃は、稲作の作付面積よりも、青苧栽培面積の方が広かったといわれている。
特産品の奨励なら、他の大名もやっていることなので、特筆するまでもないかもしれない。しかし、謙信は、特産品奨励だけでなく、港の支配とセットにしているのである。これが「船道前(ふなどうまえ)」で、民間の水運業者から徴収する入港税に該当する。これが年間、かなりの収入になったといわれている。
それだけではなかった。謙信は、青苧の売買に関わる商人に「青苧座」という座をつくらせ、その青苧商人から「座役(ざやく)」、すなわち営業税としての冥加金(みょうがきん)を上納させていた。正確なデータはないが、この「船道前」と「座役」がかなりの額に及んだといわれている。