新宿に「焼鳥」を広めたのは意外な乗り物だった! 徒歩5時間の仕入れを不要にした“物流革命”の正体
かつて田舎町であった新宿は、昭和時代初期から繁華街として発展し始める。昭和初期の新宿では屋台の焼鳥が人気だったが、焼鳥をはじめとして目覚ましく発展する新宿の飲食業を影で支えていたのが、オートバイだったのである。
詩人による焼鳥の下ごしらえ

「やきとりといっても無論豚の内臓のことで、タンとかガツとか子袋とかハツとかその他、適当に切ったのを串にさした」(草野心平『わが青春の記』)
草野によると、彼が売る焼鳥とは豚の内臓肉の串焼きであり、それが「無論」、当時の常識であった。
1960年代に米国からブロイラーが導入されるまでの鶏肉は、豚肉はおろか、和牛肉よりも高価な高級食材であった。なので庶民的な焼鳥屋台では、値段の安い豚の内臓肉の串焼きを「焼鳥」と称して売るのが常識となっていた。鶏肉の焼鳥は
「本物の焼鳥」
とよんで区別したが、その本物の焼鳥は豚の内臓肉の焼鳥の10倍の値段がしたので、庶民にとっては高嶺の花だった。
「材料屋がオートバイをとばして豚の臓物類を運んでくるのが毎日昼頃で、それから切ったり串に刺したり、なくなったタレをつくったりなどしているうちに午後の時間はたってしまう」
焼鳥の材料である豚の内臓肉は、内臓問屋が各屋台主の家にオートバイで配達してくれた。なので草野ら焼鳥店主は、三ノ輪などの遠くにある問屋に仕入れに行く必要はなかったのである。