かつて成田を埋め尽くした「赤い翼」! 太平洋路線の名門「ノースウエスト航空」を覚えているか? 消滅から15年、その栄光と挫折とは
ノースウエスト航空の成長戦略

1980年代に入ると、米国では航空自由化が進み、それまで厳しく規制されていた路線や運賃に関して多くの会社が参入した。これにより、既存の航空会社も新たな地域への路線展開が容易になった。ノースウエスト航空は得意とする太平洋路線だけでなく、安定した収益が見込める国内線の路線網を拡大し、自由化翌年の1979年にはスウェーデンやデンマークへの大西洋路線も開設した。太平洋以外の路線の増加を受け、1984年には会社名を「ノースウエスト・オリエント・エアラインズ」から「ノースウエスト・エアラインズ」に変更した。
しかし、同時に米国の航空大手であるアメリカン航空やユナイテッド航空、デルタ航空などが長距離国際線に進出し、競争が激化した。1980年代には多くの航空会社が競争に巻き込まれ、既存の航空会社や新規会社の多くが合併や破産により消滅していった。長距離路線でも例外ではなく、かつてノースウエスト航空の太平洋路線最大のライバルであったパンナムは、航空自由化後に業績が悪化し、1985年に太平洋路線と成田空港のハブ機能をユナイテッド航空に売却した。最終的にパンナムは1991年に消滅した。
この主な原因のひとつは、国内線を拡大するためにナショナル航空を買収したことにある。パンナムは1980年にナショナル航空を買収したが、ナショナル航空はフロリダを拠点にしており、米国中部のネットワークが弱く、全米規模での路線拡大には繋がらなかった。また、機材の違いがコストを増加させる要因となり、結果的に無駄な支出を生むこととなった。
一方、ノースウエスト航空は異なった戦略を取った。ノースウエスト航空は1986年にリパブリック航空を買収し、この会社は米国北部、南部、西部の航空会社が合併して誕生した会社であり、全米規模で路線を持っていた。拠点は米国の産業の中心地として知られ、全米規模の路線拡大がしやすい中部の大都市であるメンフィスとデトロイトだった。ノースウエスト航空はリパブリック航空を傘下に加え、元々運行していた米国北西部の路線を合わせて国内線でも影響力を増すことに成功した。また、強みである国際線との乗り継ぎ需要にも応え、1980年代から90年代の激動の時代を乗り越えることができた。
メンフィスとデトロイトの両空港は、引き続きノースウエスト航空のミネアポリスと並ぶ重要なハブ空港となり、特に自動車産業の中心地でもあるデトロイトは同社を支える重要な拠点となった。