かつて成田を埋め尽くした「赤い翼」! 太平洋路線の名門「ノースウエスト航空」を覚えているか? 消滅から15年、その栄光と挫折とは

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ノースウエスト航空は、日本とアジアを結ぶ重要な架け橋として、成田空港での赤い尾翼の大型機で広く知られた。1980年代以降の競争激化と航空自由化の中、2008年のデルタ航空との合併によりその歴史は幕を閉じたが、成田のハブ機能は依然として影響力を持ち続けている。

アジア路線の拡大と成功

1985年、デトロイト・メトロポリタン空港のノースウエスト・オリエント・マクドネル・ダグラスDC-10(画像:lipperarctic)
1985年、デトロイト・メトロポリタン空港のノースウエスト・オリエント・マクドネル・ダグラスDC-10(画像:lipperarctic)

 ノースウエスト航空は、日本政府から無制限の「以遠権」路線開設の権利を与えられていた。以遠権とは、拠点を置く本国と相手国の間だけでなく、相手国から第三国への路線を運航できる権利を指し、この権利を利用してノースウエスト航空は、米国から日本各地だけでなく、日本を経由してアジア各国への路線を開設した。

 特に東京は、米国太平洋路線のハブ空港となり、パンナムやそれを引き継いだユナイテッド航空と同様に、羽田空港や成田空港から米国本土だけでなく、アジア各都市やミクロネシア(グアムやサイパンなど)、ハワイなど多くの路線が運航されていた。ノースウエスト航空が開設したアジア各地への路線は、釜山、ソウル、北京、上海、広州、台北、高雄、香港、マニラ、バンコク、クアラルンプール、シンガポールの12都市に及び、2000年代半ばまで外資系航空会社の中で最大の本数を運航していた。

 成田空港には多くの長距離用機材がニューヨークやロサンゼルスなどの米国本土からやってきたほか、釜山路線などで用いられる常駐機材(エアバスA320やボーイングB757)も存在していた。また、機内食工場や整備拠点も設けられ、米国内のミネアポリスと同様のハブ空港として機能していた。

 午後になると、次々と米国からやってきた赤い尾翼のノースウエスト航空の大型機が第1ターミナルを埋め尽くし、数時間後にはアジア各地へ飛び立っていく。これが1978年の開港以来、長きにわたって成田空港の名物となっていた。その様子は

「成田は米国内よりも多くのジャンボ(ボーイングB747)が見られる」

とまでいわれ、世界中の航空ファンを魅了した。

 また、同社のアジア路線は大型機中心で運航されていたため、旅行代理店に在庫が出回りやすく、運賃が比較的安価だったことから、旅行者にも人気のある路線となっていた。ノースウエスト航空は、日本の航空会社であるJALやANA、また文化的影響を残したパンナムを除けば、日本人にとって最も身近な航空会社だったといっても過言ではないだろう。

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