「多摩田園都市」はなぜ多摩ニュータウンに圧勝したのか? 人口60万人規模に大成長、カギは「電車を作って → 人を集めた」だった
東急の多摩田園都市開発
多摩ニュータウンと多摩田園都市は一見共通点が多いのに、結果としては明暗が分かれる形となった。多摩ニュータウンの歴史を中心に紹介した前回記事(2023年3月19日配信「多摩ニュータウンはなぜ「人口20万人」にとどまったのか? “陸の孤島”から始まった苦難の道をご存じか」)に続く本記事では、多摩田園都市の歴史を中心に解説する。
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東急グループの事実上の創業者である五島慶太は、戦後になって東急東横線と小田急線の間の、川崎市北西部・横浜市北部の開発を構想した。早くも1953(昭和28)年1月に「城西南地区開発趣意書」を発表、これが多摩田園都市のはじまりとなった。
この地域は戦前から横浜市と川崎市に編入されていたが、交通が不便で開発が遅れ、当時は(現在ならば差別的表現として問題になるが)「横浜のチベット」と呼ばれて、県や市の公務員の出張には宿泊手当がついたという。
五島の当初の構想は、東京からこの地域を経て江ノ島まで自動車専用道路を建設するというものだったが、民間による高速道路建設は国の理解を得られず、また東名高速や第三京浜の建設が具体化したことから、道路建設は中止され、代わりに鉄道を軸とした地域開発構想が固まってゆく。
地元もまだモータリゼーション前夜であったことから、鉄道の方を強く望んでいた。東急は1956年に大井町線の終点だった溝ノ口から横浜線の長津田までの免許を出願する(翌年に長津田~中央林間間を追加)。
東急のこの地域の開発も、当初は全面的な土地買収を考えていた。しかし農地法の問題などから困難と分かり、区画整理事業の方式を全面的に取り入れることにしたのである。多摩ニュータウンでも一部取り入れられた区画整理であるが、これは開発地域の地権者の土地を集約して、平等な減歩率をかけ、道路などの公共用地に充てたり保留地を捻出したりして売却し整理費用に充てて、残った土地を地権者に再分配するものである。