「多摩田園都市」はなぜ多摩ニュータウンに圧勝したのか? 人口60万人規模に大成長、カギは「電車を作って → 人を集めた」だった
多摩ニュータウンと多摩田園都市の相違

ともに東京の西方で30万~40万人規模の開発をめざし、高度成長期に着手された多摩ニュータウンと多摩田園都市であったが、多摩ニュータウンは20万人までしか達せず、いっぽう多摩田園都市は60万人にまで膨れ上がった。
一見類似点の多い開発にも見えるが、ここまで見たように公団・都主体で新住法による多摩ニュータウンと、民間企業の東急主体で区画整理による多摩田園都市と、相違点も少なくない。
端的に言えばその違いは、人が来てから電車を造ったか、電車を造ってから人を集めたかの違いであった。
東京大学の都市工学科で教授を務めた伊藤滋氏は、2008(平成20)年にこう述べている。
伊藤 (ヨーロッパの例と比較して)だから日本人の考え方は、基本的におかしい。鉄道を造ってから人を入れるとか、人を入れてから少なくとも半年後には鉄道が走るとかね。それやらないと。
―― 私鉄の宅地開発ですと、阪急と宝塚の関係もそうですが、線を引いてから入れますよね。
伊藤 私鉄はそうですよ。東急田園都市線沿線の住宅開発と多摩ニュータウンの一番の違いは、鉄道を引いて区画整理を行ったのと、鉄道を引かないで新住法で開発したこと。これが違うんですよ。
―― これは縦割りの弊害でしょうか。
伊藤 そうでしょうね。当時の運輸省と建設省ですね。大学の先生はみんな同じ事考えていたと思いますよ。鉄道は最初赤字だけど、赤字は30年か50年で返せばいいから、最初から入れた方がよほどいい。入れば加速的に住宅を造れるでしょう。初めの赤字も短くなる。
――しかも、京王も小田急も、望んであそこに線をつくったわけではないですからね。
伊藤 そうですよ。あの頃、国と東京都が、どれくらいサラリーマンを人として扱っていなかったかということですね。
(細野助博・中庭光彦編著『オーラルヒストリー 多摩ニュータウン』中央大学出版部、2010年)