「多摩田園都市」はなぜ多摩ニュータウンに圧勝したのか? 人口60万人規模に大成長、カギは「電車を作って → 人を集めた」だった
多摩ニュータウンと多摩田園都市は一見共通点が多いのに、結果としては明暗が分かれる形となった。今回は多摩田園都市の歴史を振り返る。
「人口40万都市」目指す

区画整理の手法で農村を宅地開発するというのは、戦前からよく採られていた方法で、当時は「耕地整理」といった。組合をつくって耕地整理の名目で道路などを建設し、都市化に対応しようとしたのである。
しかしこの手法は、うまく土地が売りさばけないと区画整理(耕地整理)の費用が調達できず、開発が進まない。そこで東急が乗り出し、東急が整理事業一切を代行し費用も負担、その代わり捻出された保留地をすべて取得するという「業務一括代行方式」で開発を行うこととなった。
東急は現在の世田谷区などで戦前に耕地整理に加わって、地主と共同で住宅地開発を行った経験があり、それが生かされたともいわれる。この手法は「東急方式」と呼ばれるようになる。この方式での開発は1959年から始まった。
1959年に五島慶太は亡くなるが、息子の五島昇が後を継ぎ、多摩田園都市計画でも「人口40万人都市」の建設をめざして開発が進められた。