「多摩田園都市」はなぜ多摩ニュータウンに圧勝したのか? 人口60万人規模に大成長、カギは「電車を作って → 人を集めた」だった
多摩田園都市の発展

田園都市線の長津田以遠は小刻みに延伸し、1984(昭和59)年に中央林間まで全通した。また都心側では、1977年に二子玉川園~渋谷間に地下鉄の新玉川線(現在は田園都市線に編入)が開通、多摩田園都市の利便性は飛躍的に向上した。田園都市線は更に、1978年に最初の区間が開業した営団(現・東京メトロ)半蔵門線と直通し、利便性を一層高めた。
多摩田園都市では、公団による団地も建設されたが、東急の不動産部門による住宅分譲が大規模に行われた。さらに東急系列のスーパーや百貨店が設けられ(1982年たまプラーザ東急百貨店オープン)、スポーツ施設やケーブルテレビも東急系でそろえられた。近年はインターネットや警備、介護つきマンション、電力供給なども手掛けており、生活に関するさまざまなサービスを丸抱えで営んでいる。
この開発によって、田園都市線開通当時は5万人に満たなかった沿線人口は、早くも1970年に10万人に達し、1976年には20万人を超えた。1980年には30万人、1987年に40万人へ達し、構想されていた人口を四半世紀で実現した。以後のバブル崩壊で多少人口の伸びは低下したものの、1997年には50万人を超えた。現在でも沿線人口の増加は続き、およそ60万人に達している。
これだけ見れば多摩田園都市は、多摩ニュータウンと対照的な「成功」を収めたようにも見える。しかし多摩田園都市の人口が増加しすぎたため、基幹となる交通機関である田園都市線は混雑が常態化してしまった。
2009(平成21)年には、田園都市線と分離されていた大井町線が溝の口まで延伸し、二子玉川~溝の口間を複々線化して都心への新たなルートを設けている。近年はコロナ禍で混雑率低下がみられるが、人口増は2030年代まで続くともいわれている。