「多摩田園都市」はなぜ多摩ニュータウンに圧勝したのか? 人口60万人規模に大成長、カギは「電車を作って → 人を集めた」だった
多摩ニュータウンと多摩田園都市は一見共通点が多いのに、結果としては明暗が分かれる形となった。今回は多摩田園都市の歴史を振り返る。
田園都市線の建設と沿線開発

区画整理事業と並行して、鉄道の建設も進められた。東急ではこの地域を「多摩田園都市」と名づけ、溝の口~二子玉川園(現・二子玉川)~大井町間を走っていた大井町線を「田園都市線」と改称して、1966(昭和41)年に溝の口~長津田間を開通させた。
これと並行して、沿線の各地で東急と元の地主との共同による区画整理組合が設けられ、開発が段階的に進められていった。1969年12月までに12の土地区画整理事業が完了し、施行面積は合計で818haとなっていた。翌年1月時点では16の土地区画整理事業が進んでおり、これらの施行面積は1274haに及んだ。
地主との間では協調関係を取れた東急の開発であったが、地方自治体とは衝突もあった。ここでも人口増加に伴って学校はじめ公共施設の拡充が必要となり、その費用をどうするかが問題になったのである。横浜市は1968年に「宅地開発要綱」を出し、開発事業者に対して公共設備の整備に応分の負担をするように定めることになる。
この費用負担については、横浜市と東急の間でも厳しい折衝があったが、1967年12月の飛鳥田一雄横浜市長と五島昇東急社長とのトップ会談でめどがつき、翌年6月に東急が小中学校4校分の敷地を無償提供、16校分の敷地も開発前の価格(時価の6分の1)で譲渡することで決着した。
この交渉に際して五島は飛鳥田に「私の父親は強盗慶太と言われましたけど、飛鳥田さんはそれ以上ですね」と言い、飛鳥田は「市民のためになるなら強盗にでも何にでもなりますよ」と応じたという。