「多摩田園都市」はなぜ多摩ニュータウンに圧勝したのか? 人口60万人規模に大成長、カギは「電車を作って → 人を集めた」だった
開発主体の違いも影響

多摩ニュータウンの整備は、東京都と住宅公団がそれぞれ行っており、手法も新住法と区画整理が入り交じっていた。都と地元の自治体(しかも4市にまたがっている)との足並みは、財政問題に見られるようになかなかそろわず、また交通を担当する電鉄会社ともしばしば対立があった。多摩ニュータウン全体を一元的に見通して整備する、という体制になっていなかったのである。
これに対し多摩田園都市では、東急が中心となって鉄道という背骨を通し、また区画整理に加わることで地権者の了解を取り付けながら開発を進めた。商業施設も東急の資本で開発され、地域の魅力を高めるように造られた。時代に応じて投資が進められ、住宅や商業施設も更新されていった。
多摩ニュータウンの商業施設は、当初開発された地域ごとに商店街が造られたが、その多くは、開発で土地を失った農民が都や公団のあっせんで転業してできたものだった。しかしその商店街は、繁栄したとは言えなかった。多摩村の農家に生まれてニュータウン用地買収の取りまとめをし、のちには多摩市議会議員も務めた横倉舜三氏は、2006~07年の聞き取りにこう述懐している。
横倉 全国でも稀な、こういう大規模な住宅団地をつくったことは、私たちも誇りを持っていたんですよ。農民もそれに協力をしてきた。成田空港の買収が、ちょうど同時に行われ始めたが「成田は未だにまだ滑走路ができていないじゃないか。こっちはもう、とっくに終わっているよ」と。そんなに協力をして、新しい街ができた。もちろん道路とかも、今まで考えられなかったような、普通だったらスプロール化して、虫食い状態の地域になってしまうところに、整然とした街ができたことで誇りを持っていたのです。
ところが、考え直してみると「おれたちは、何のためにニュータウンに協力したのか」と。金だったら、そんなに。あの当時、買収したのは、山林は平均5000円ですから、そんな金ではない。養蚕という産業がなくなり、この開発によって30万人もの人々が集まってきたら、農業をやめても何か仕事がいっぱい出てくるだろうと期待を持っていたわけです。公団の考え方に左右されてしまった地元の人々はもう土地を持っていませんから、そういう産業に携わることができなくなってしまった。
ですから、今、地主さんは、やはり「これは自殺行為だった」というように思い始めている。先祖が言っていた、「土地は売ってはいけない」。でも、最初は、国家的開発、公的な開発ということですから。最初の考え方と今の考え方は、もうほとんど変わっていると思います。最初は、「土地というのは、国の土地だから、最終的には国が使うということだったら、それはしようがないだろう。職業をやめても、多くは国のため」、そういう考え方が、この地域にはあったということです。(中略)
地主さんは職業をやめるわけですから、生活再建のための措置を講じて、ほかの団地を見学に行ったりした。商売をやる人は、「お店をつくったから、そこで商売してください」ということでやったんですが。諏訪、永山、落合、いろいろなところで団地の商店街が作られ、それがもう全部失敗しているわけです。失敗するということは、地主さんは全部損をしているわけです。とにかく、街づくりが進まないうちに、地主さんたちの生活再建をしましたから、大型店が次々に出てくると、そちらに客が取られていく。車社会になり、大型店の方にどんどん移動していってしまうわけで、団地商店街では商売にならない。結局、失敗してきたということでしょうね。
(『オーラルヒストリー 多摩ニュータウン』)
これに対し、多摩田園都市では元の地権者が開発された土地を得て、マンションのオーナーなどになり、言い方は悪いが「土地成り金」になれた人も少なくなかった。新住法と区画整理の差は、旧住民の命運も分けた。全く皮肉にも、「国のため」という公共的な理念で行われた開発よりも、企業が利益を上げるため、地元にも利を示して巻き込んだ事業の方が、都市開発としては「成功」してしまったともいえるのである。