徳川家康が死を覚悟した「神君伊賀越え」 400年前の“逃避行”をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(12)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

古道がそのままの姿で

信楽街道の一部。舗装されていない山道である。国道307号が建設される以前は主要な交通路だった(画像:宇治田原町産業観光課)
信楽街道の一部。舗装されていない山道である。国道307号が建設される以前は主要な交通路だった(画像:宇治田原町産業観光課)

「家康一行が逃避行した古道がそのままの姿で残っています。うっそうとした林に囲まれた山道は、家康公の足跡をたどるのに最適でしょう」

 こう胸を張るのは、宇治田原町産業観光課の植村和仁さんだ。家康が通った400年以上前の地形が多く残っているという。

 ただし、それらの地形を残す道が伊賀越えルートとは、地元でも知る人は少ない。一行が休憩に立ち寄ったとの伝承が残る寺院・遍照院には、家康が座ったといわれる「腰掛け岩」も現存するが、訪れる人はコアな歴史ファンが多かった。それが、一般からも注目を浴びている。

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