東京都心・首都高に息づく「徳川家康」のインフラ整備! 銀座・大手町・日本橋、どうする現代人?【連載】江戸モビリティーズのまなざし(10)
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徳川家康は地方の湿地帯に過ぎなかった江戸を整備し、モビリティを促進した。それが現在の東京に脈々と息づいている。
日比谷・大手町などは家康が整備した埋め立て地
NHK大河ドラマ「どうする家康」がスタートした。2023年は、徳川家康がちょっとしたブームになりそうだ。
徳川家康は江戸に幕府を開いたことで知られるが、当時は地方の湿地帯に過ぎなかった江戸を整備し、モビリティを促進した。それが現在の東京に脈々と息づいている。
家康が駿府(静岡市)から江戸に入ったのは1590(天正18)年8月1日。この時の江戸は、現在の東京とはまったく違う様子だった。今では考えられないが、日比谷、新橋の一帯は「日比谷入江」と呼ばれ砂州(さす/砂が堆積した地)で、海が目前にあった。
また、現在のJR有楽町駅から東京駅にかけては「江戸前島」といい、その東側に江戸湊(みなと)があり、やはり海に面し、日々多くの小船が出入りしていた。
湊(港)があるなら、水運の拠点に活用できる。水運が発達すれば商業活動も促進される――家康はそう考えたろう。
1600(慶長5)年、天下分け目の関ケ原の戦いに勝利し、実質的な天下人となると、都市計画を本格化させる。1603年に日比谷入江の埋め立て工事を開始し、かつ江戸前島に道三堀(どうさんぼり)という堀を造った。道三堀は、現在の大手町の辺りである。
続いて、平川を道三堀につなぐよう開削した。すると川が江戸湾に注がれるようになり、湿地帯だった一帯の水はけも良くなった。そこに土を盛って町を造った。ここが日本橋浜町の周辺だ。