徳川家康が死を覚悟した「神君伊賀越え」 400年前の“逃避行”をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(12)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

「本能寺の変」で窮地に

『本能寺焼討之図』。右端の顔をのぞかせている人物が織田信長(画像:東京都立中央図書館特別文庫室)
『本能寺焼討之図』。右端の顔をのぞかせている人物が織田信長(画像:東京都立中央図書館特別文庫室)

 6月2日、家康は信長の招きに応じて大坂の堺に滞在していた。その最中、信長死すの知らせが届く。

 家康と信長は同盟関係にあったため、家康は光秀にとっても敵だった。わずかな供しか帯同させていなかった家康は、大軍を擁する光秀から逃げられないと考え、潔く自刃すると取り乱す。

 そこで家臣たちは、堺から近江国(滋賀県)と伊賀国柘植(三重県伊賀市)の山道を抜け、伊勢湾の東に出て、船で三河国(愛知県)に戻る逃亡ルートを示した。途中には山深い峠もあった。

 家康はこの案に賭け、山道を踏破することを決心する。これが後世、「神君伊賀越え」と呼ばれる出来事だ。家康は数日かけて、無事に三河に帰還する。

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