徳川家康が死を覚悟した「神君伊賀越え」 400年前の“逃避行”をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(12) 歌川広重「東海道五十三次 三島 朝霧」1833~1834年 葛飾北斎「東海道五十三次 絵本駅路鈴 箱根」 水野年方「三十六佳撰 遊山 享保頃婦人」。1893年 高橋松亭「お茶の水」。1909~1916年 葛飾北斎「東海道五十三次 絵本駅路鈴 沼津」 静岡市にある徳川家康像(画像:写真AC) 『石川忠総留書』の伊賀越えの箇所。「天正十年六月三日」(本能寺の変の翌日)の日付、「伊賀路」「「堺ヨリ山城国宇治田原江」などの文字が読み取れる(画像:国立公文書館) 『本能寺焼討之図』。右端の顔をのぞかせている人物が織田信長(画像:東京都立中央図書館特別文庫室) google mapを元に伊賀越えのルートを記した。この地図は『石川忠総留書』に記録された地を線でつないで簡略化して作ったもので、詳細な道は諸説あっていまだわかっていない(画像:小林明) 京田辺市の「伊賀越えスタンプラリー」(画像:京田辺市観光協会) 信楽街道の一部。舗装されていない山道である。国道307号が建設される以前は主要な交通路だった(画像:宇治田原町産業観光課) 『宇治田原歴史の道 信楽街道 家康伊賀越えの道』の案内パンフレット(画像:宇治田原町産業観光課) この画像の記事を読む