武田信玄はなぜ信濃を支配下に置いたのか? そのカギは「馬」にあった! 軍事・運輸に欠かせない、その歴史をたどる【連載】江戸モビリティーズのまなざし(11)
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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。
馬は軍事・運輸・経済を担っていた
江戸時代まで、日本人にとって「馬」は身近な存在だった。人々の暮らしは、常に馬とともにあった。「武士の政治・居住の場、天皇と貴族の空間、町人の商工業の場、農林水産業の場に馬がいた」(兼平賢治『馬と人の江戸時代』吉川弘文館)のである。
大陸から日本に馬が伝わったのは、5世紀頃だった。その時期の遺跡から馬具や馬の骨などが発掘され、また馬の形をした埴輪(はにわ)なども出土していることから、まずまちがいない。
最初は軍事目的に利用された。武官(朝廷から任じられた軍人)による騎兵隊が組織され、馬は「武具」として重宝された。後の時代、これらが騎馬武者といった武士の誕生につながり、また通信(早馬など伝令役の使者が乗る)にも役立つ。
馬の産地・飼育地も各所にあった。重要なのは、その地が権力者の支配下にあったことだ。例えば、下総(千葉県北部および茨城県南部)は馬の産地で、10世紀前半、ここに君臨したのが平将門(たいらの・まさかど)だ。京都の朝廷に反乱を起こした武士である。
奥州藤原氏が黄金文化を開花させた平泉(岩手県)、戦国武将の武田信玄が治めた甲斐(山梨県)、島津氏が統治した薩摩(鹿児島)にも、馬産地と放牧地があった。放牧に適した草原が広がり、馬の飼育に適していた。
こうした地は軍需産業の中枢であると同時に、モータリゼーションが到来する以前の運輸を支えた自動車生産工場ともいえるだろう。馬の生産地は軍事・運輸において大切であり、生産された馬は国の発展に欠くことができなかった。