物流構造が大転換した「近代日本」 内航海運、鉄道、道路と主役交代した歴史を振り返る
日本の貨物輸送は内航海運、鉄道、道路へと主役交代し、経済発展が加速した。明治維新後は鉄道輸送が急速に発達。今回はそんな貨物輸送の近代史をたどった。
大半を占めていた海運輸送

統計グラフのはじまりは1895(明治28)年であるが、分担率は鉄道が14.5%、内航海運が85.5%と圧倒的に沿岸海上輸送が多かった。戦前の内航海運は西洋型船舶トン数の推移から推計されており、近世以来の和船の輸送量は含まれていない。従って、それを含めると内航海運の分担率はさらに高いと考えられる。
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なお、江戸時代にはかなり盛んだった河川・運河・湖沼の水運、いわゆる内陸水運は、明治以降も、利根川、琵琶湖などで汽船の就航がはじまり、江戸川・利根川間などで運河の掘削が行われるなど、新規の取り組みが進められていたが、道路輸送と同じく、当初より鉄道の脅威にさらされ、西欧や中国のような運河輸送の繁栄は望むべくもなかった。このため、わが国の輸送統計では当初からあらわれていない。
また、道路輸送には自動車輸送だけでなく、馬背や馬車の輸送もある。西欧では、重商主義時代から産業革命後期にかけ、
馬車
↓
馬車鉄道
↓
蒸気鉄道
へと輸送の主役が段階的に移り変わっていった。
日本では文明開化の事物として、それらが同時的に導入され、明治初めにはいずれも路線輸送が展開しはじめた。しかし、1890年前後に本格的鉄道時代を迎えると馬車や馬車鉄道は衰退し、従って、統計に登場することはなかった。
日本では、江戸時代に、幕府が諸大名の軍事力の移動を困難にするため、主要な河川に架橋を禁じ、また街道の幅を制限し、車両の使用も禁止していた。そのため、人の移動はともかく、貨物の大量輸送用の道路インフラは極めて脆弱(ぜいじゃく)だった。道路輸送が統計に登場するのがずっと遅れるのはこうした事情による。