日産が「村山工場」を捨てた根本理由――ゴーン氏だけの影響じゃない! グローバル化の波に消えた企業城下町、追浜・湘南閉鎖から考える

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バブル期の過剰投資が招いた“幽霊工場”の教訓は、今なお色濃く残る。日産が検討する追浜・湘南両工場の閉鎖は、村山工場の轍を再び踏むものなのか。国内工場削減の裏にある、製造業の構造転換と都市近郊立地の限界に迫る。

経営体制の大変化

 1999(平成11)年3月、経営危機に陥った日産はフランスのルノーと資本提携を結んだ。これを機にルノーからカルロス・ゴーンが最高執行責任者(COO)として派遣され、「日産リバイバルプラン(NRP)」を策定した。このプランでは、

・過剰な生産能力の削減
・資産圧縮

を最重要課題と位置づけた。

 当時の日産の経営状況は深刻だった。1999年時点の国内車両生産能力は年間240万台あったが、実際の生産は128万台にとどまり、稼働率は53%だった。NRPでは、2002年までに稼働率を82%に引き上げる目標を掲げた。具体的には以下の方針を打ち出した。

・村山工場、日産車体京都工場、愛知機械港工場など国内5工場の閉鎖
・従業員の14%にあたる2万1000人の削減(うち製造部門は4000人)
・取引部品メーカーを1145社から600社以下に半減

これらに加え、多数の施策を実施し、コストを1兆円削減。2000年度の黒字化と、2002年度には有利子負債(利息の支払い義務が伴う借入金や債務)を1999年度比で50%削減する計画も示された。

 NRPは、日産が従来の日本的経営を見直し、グローバル競争に勝つため、効率性を最優先する姿勢の表れだった。ゴーン以前から生産体制の抜本的な改革は必要だという認識は社内にもあった。しかし、

・社員の居住地
・地元経済

との関係から工場の移転・集約は簡単ではなかった。

 こうした事情が重なり、日産では社内製造コストの約50%が固定費となる、極めて非効率な体制が形成されていた。高度成長期には有効だった都市型工場や企業城下町のモデルは、1990年代にはコスト負担の大きい時代遅れの仕組みとなっていたのである。

 したがって、企業存続を第一とすれば、村山工場の閉鎖による再編は避けられない決断だったといえる。

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