日産が「村山工場」を捨てた根本理由――ゴーン氏だけの影響じゃない! グローバル化の波に消えた企業城下町、追浜・湘南閉鎖から考える
バブル期の過剰投資が招いた“幽霊工場”の教訓は、今なお色濃く残る。日産が検討する追浜・湘南両工場の閉鎖は、村山工場の轍を再び踏むものなのか。国内工場削減の裏にある、製造業の構造転換と都市近郊立地の限界に迫る。
都市立地が招く高固定費
村山工場は閉鎖前から稼働率の維持が難しくなっていた。稼働率とは、生産能力に対して実際に稼働している割合を示す指標である。具体的には、工場がフル稼働した場合の生産量を100%とし、実際の稼働状況を数値化する。
例えば、1日に最大100台の車を生産できる工場が、実際に80台の生産にとどまれば、稼働率は80%となる。稼働率が高いほど設備や人員の活用が効率的である。一方、稼働率が低い場合は、設備の遊休や固定費の負担が重くなり、経営効率が悪化するリスクが高まる。
自動車業界では市場の需要変動や生産計画の影響で稼働率が変動しやすい。特に景気後退や需要低迷期には、稼働率の低下が深刻な問題となる。
村山工場では一時帰休や勤務日数削減などの生産調整策が断続的に行われていた。これは単なる景気の波に対応するものではない。工場の生産体制自体が時代の需要構造に適応できなくなっていた証左である。
トヨタとの生産性格差や巨額の利払い負担に加え、都市立地特有の高い固定費も村山工場の重荷だった。結果として、同工場は日産の競争力を支えるどころか、経営の足かせとなっていたのである。