日産が「村山工場」を捨てた根本理由――ゴーン氏だけの影響じゃない! グローバル化の波に消えた企業城下町、追浜・湘南閉鎖から考える

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バブル期の過剰投資が招いた“幽霊工場”の教訓は、今なお色濃く残る。日産が検討する追浜・湘南両工場の閉鎖は、村山工場の轍を再び踏むものなのか。国内工場削減の裏にある、製造業の構造転換と都市近郊立地の限界に迫る。

自動車産業の再編

日産の元会長カルロス・ゴーン氏(画像:AFP=時事)
日産の元会長カルロス・ゴーン氏(画像:AFP=時事)

 村山工場の閉鎖は、カルロス・ゴーンの強権的改革ばかりが注目されがちだ。しかし、この問題は1990年代から進行していた自動車産業全体の構造変化の一環で捉える必要がある。

 冷戦終結後のグローバル化により、自動車メーカーは世界規模で最適な立地を追求するようになった。従来の「国内一貫生産」から

「国際分業」

へと生産体制が変わり、各地域の比較優位(労働コスト、物流コスト、政策支援など)に基づく拠点配置が重視されるようになった。

 この変化は国内でも顕著である。1990年代以降、九州には自動車各社が相次いで進出し、関東・中京に次ぐ第三の自動車産業集積地となった。

 ただし、九州の役割は完成車の組み立てに特化している。研究開発や高付加価値部品の調達は依然として関東・中京圏に集中していた。

 この「機能分散・役割特化」の流れのなかで、村山工場のような都市近郊の一貫生産型工場は、高い固定費に見合う競争優位を失いつつあった。地価や人件費の安い地方や海外拠点で同等の品質の製品が生産できるなら、コストの高い都市部に工場を維持する必要はなくなった。

 つまり、村山工場の閉鎖は、20世紀型の都市近郊工場が21世紀型のグローバルサプライチェーンに淘汰されていく過程を象徴する出来事であった。

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