日産が「村山工場」を捨てた根本理由――ゴーン氏だけの影響じゃない! グローバル化の波に消えた企業城下町、追浜・湘南閉鎖から考える

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バブル期の過剰投資が招いた“幽霊工場”の教訓は、今なお色濃く残る。日産が検討する追浜・湘南両工場の閉鎖は、村山工場の轍を再び踏むものなのか。国内工場削減の裏にある、製造業の構造転換と都市近郊立地の限界に迫る。

株主資本主義が壊した城下町幻想

イオンモールむさし村山の位置(画像:OpenStreetMap)
イオンモールむさし村山の位置(画像:OpenStreetMap)

 村山工場の閉鎖は単独の出来事ではない。1990年代から2000年代初頭にかけて、日本の製造業全体が都市型工場の構造的な限界に直面した。実際、いすゞ自動車が川崎工場を閉鎖するなど、多くの企業で生産体制の抜本的な改革が始まっている。これらに共通する課題は、都市立地特有の高コスト構造からの脱却である。

 特に自動車産業においては、都市型工場が以下の問題を抱えていた。

・地価や人件費の高騰による固定費の増加
・従来の4年サイクルのモデルチェンジによる設備投資回収期間の短縮
・グローバル分業体制における生産調整の難しさ

 かつての都市型工場は「企業城下町モデル」として成立していた。前述のとおり、村山工場周辺では、都営村山団地が整備され、工場労働者とその家族約1万人が居住していた。

「工場、住宅、商業施設が一体となった地域社会」

が形成されていたのである。

 しかし、このモデルは日本経済の高度成長と終身雇用制度を前提にしていたため、グローバル競争のなかで維持は困難となった。企業の意思決定が「地域との共存共栄」から

「株主価値の最大化・グローバル最適化」

へと転換したことが背景にある。

 跡地の約3分の1は、2006年にダイヤモンドシティ・ミューとして開業したイオンモールむさし村山など、商業施設や医療施設へと再開発された。一方で、残る敷地は宗教法人・真如苑に譲渡され、2020年代に入っても一部は未利用のままとなっている。現在は、サッカーグラウンドの整備や市役所の移転構想も進行中だ。

 都市と産業の関係は、構造的な転換を迎えている。都市部における製造業の役割は、大量生産から研究開発や試作、高付加価値の生産へと限定されつつある。かつての企業城下町モデルが再び機能する可能性は低く、都市型工場を再評価するのは極めて難しい局面にある。

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