日産が「村山工場」を捨てた根本理由――ゴーン氏だけの影響じゃない! グローバル化の波に消えた企業城下町、追浜・湘南閉鎖から考える

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バブル期の過剰投資が招いた“幽霊工場”の教訓は、今なお色濃く残る。日産が検討する追浜・湘南両工場の閉鎖は、村山工場の轍を再び踏むものなのか。国内工場削減の裏にある、製造業の構造転換と都市近郊立地の限界に迫る。

村山工場の設立と日本の高度成長

 村山工場は、もともとプリンス自動車工業の乗用車生産工場として1962(昭和37)年に操業を開始した。初代グロリアをはじめ、プリンス・ロイヤルやスカイラインの生産拠点であった。

 1966年のプリンス自動車工業と日産自動車の合併にともない、日産の主要な生産拠点となる。合併後は「日産グロリア」「日産スカイライン」などの生産が継続され、さらにダットサン・サニートラックの生産も行われた。

 その後、1968年にはローレルの生産を開始。1975年にはフォークリフトの生産も始まり、多角的な生産体制を強化した。1982年にはマーチの生産を開始し、1986年にはレパード(F31型)が新たに加わった。1988年にはセフィーロの生産も始まっている。

 工場は東京都武蔵村山市と立川市にまたがる約139万平方メートル(東京ドーム30個分)の広大な敷地に立地し、1964年から1966年にかけては、村山工場の労働者を支えるため都営村山団地が建設された。さらに、敷地内には約4.25kmのテストコースが設けられ、スカイラインなどの走行試験が実施された。

 これらの取り組みにより、村山工場はプリンス自動車工業時代から日産自動車時代にかけて、首都圏における重要な自動車生産拠点としての地位を確立した。

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