日産が「村山工場」を捨てた根本理由――ゴーン氏だけの影響じゃない! グローバル化の波に消えた企業城下町、追浜・湘南閉鎖から考える

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バブル期の過剰投資が招いた“幽霊工場”の教訓は、今なお色濃く残る。日産が検討する追浜・湘南両工場の閉鎖は、村山工場の轍を再び踏むものなのか。国内工場削減の裏にある、製造業の構造転換と都市近郊立地の限界に迫る。

200億円“幽霊工場”の代償

東京都武蔵村山市の位置(画像:OpenStreetMap)
東京都武蔵村山市の位置(画像:OpenStreetMap)

 しかし、村山工場は1990年代に入ると収益性が悪化した。背景にはバブル期の過剰投資がある。

 1989(平成元)年度の設備投資額は約1700億円だったが、1990年度に3200億円、1991年度も2600億円と急増した。とりわけ村山工場に建設された最新塗装ラインが象徴的だ。総工費200億円を投じて完成したが、本格稼働せず「幽霊工場」とやゆされた。

 当時の状況は、『朝日新聞』1992年9月5日付朝刊の記事「肥大 200億円の幽霊工場」で詳述されている。

「「あんな幽霊工場をつくらなければよかったのに」と、村山工場の組合幹部はぼやく。昨年末に完成したものの、動いていない塗装工場のことだ。その投資額は、会社が見込む最終損益の赤字とほぼ同じ200億円なのだ。日産の設備投資は、1989年度に約1700億円だったのが、90年度は約3200億円、91年度も約2600億円と急増した。そこへ見込み違いの急激な売れ行き悪化。減価償却費の2、3倍に達する投資は、設備過剰となって経営を圧迫し始めた。「実は、販売に陰りが出始めた90年末に、このまま高水準の投資を続けては危ない、と社内に警告を発した。しかし、流れを止めることはできなかった」と財務担当の村松敦副社長は悔やむ」

 この時期、バブル景気崩壊の影響で自動車業界全体が低迷していた。とりわけ日産の状況は著しく悪化していた。1993年2月には座間工場を閉鎖し、国内の五つの工場で一時帰休を実施する事態に追い込まれた。

『朝日新聞』1993年12月12日付朝刊の「どうする自動車不況 辻義文・日産自動車社長」インタビューで、当時の辻義文社長は村山工場の厳しい状況について次のように語っている。

「――新型スカイラインを生産している村山工場でも一時帰休するという事態は重大ではないですか。「これまでは新車を発表すると、6カ月間は月販売目標の3割から4割増しの台数が売れたが、この期間が短くなっている。今年1月に発表したローレルでは新車効果は2カ月しかもたなかった。長年、スカイラインを乗り継いできている人も、もう1年このまま乗ろうか、と買い控えている」 ――トヨタと比べると、日産は従業員一人あたりの売上高は6割です。「だからといって別の工場を閉鎖したり人員をもっと削減するつもりはない。今以上に人員を削減しようと採用を抑えたりすれば、今度は将来の人員構成にひずみをもたらす」 ――有利子負債は1兆1490億円に達し、利払いだけでも大変でしょう。「徐々にではあるが、減らしている。向こう3年で9千億円程度にまで減らす計画を実施している」」

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