江戸時代の物流現場はバトルロイヤル? 河岸問屋vs船持、利権争いの歴史をひも解く【連載】江戸モビリティーズのまなざし(25)
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江戸時代、思川筋を中心に発展した河川運輸では、問屋と船持が利権を巡って対立し、頻繁にトラブルが発生していた。中小運輸業者の83%が人手不足に陥る現代とは異なり、17~18世紀の水運では人手が充実していたが、それにより問屋と船頭の力関係が逆転する事態も生じていた。農村生活を支える生活必需品を運ぶ上り船が重要視され、地域ごとの格差が広がっていたことがわかる。
河岸同士vs問屋

江戸時代、河川運輸を担っていたのは河岸問屋(かしどんや)、つまり河川の湊(港)で利益を独占しようとする豪商と、船持(ふなもち)、すなわち船を所有し、実際に荷物を運ぶ船頭・水夫たちだった。
利権や賃金を巡り、河岸同士や問屋と船持の間で頻繁にトラブルが発生していた。
思川の拠点・乙女河岸と壬生河岸

河岸問屋とは、幕府・領主と結びついて水運の利権を持つ者、そして船持は、問屋に雇われた従事者である。彼らの間に起きた紛争を、下野国(栃木県)の思川(おもいがわ)を例に見ていきたい。
思川は栃木県中部にある鹿沼市に源流を持ち、南下して渡良瀬川に合流する河川だ。上流には黒川・姿川・巴波川(うずまがわ)という川もあり、思川に合流しているが、ここではまとめて「思川筋」と呼ぶ。
思川筋には複数の河岸があり、水運の拠点となっていた。特に重要だったのは、黒川の壬生(みぶ/下都賀郡)、思川の飯塚・乙女(ともに小山市)である。
壬生河岸は江戸方面に荷物を運ぶ「下り船」の起点、および江戸から荷物を積んで戻ってくる「上り船(戻り船ともいう)」の終点。一方の乙女河岸は上り・下りの中継地で、飯塚河岸は壬生と乙女の間にあった。位置関係は上の地図をご覧いただきたい。
それらの河岸は、いったいどのようなトラブルを抱えていたのだろう。