江戸は「坂」の多い町! 物資を運ぶ苦労は並大抵ではなかった【連載】江戸モビリティーズのまなざし(21)

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江戸の坂は、山の手と下町をつなぐ物流の要だった。23区内に800~900の名のある坂があり、特に山の手に集中。急勾配の坂は物資運搬に苦労し、赤土の悪路も難題。江戸時代の坂は現代の交通問題と似ており、当時の工夫と努力が伺える。

東京23区に残る800以上の坂

葛飾北斎画『くだんうしがふち』には、九段坂(現在の千代田区九段下辺り)で荷車を押す男たちの姿がある(画像:ColBase)
葛飾北斎画『くだんうしがふち』には、九段坂(現在の千代田区九段下辺り)で荷車を押す男たちの姿がある(画像:ColBase)

 今回は、江戸の歴史を語るうえで切り離すことができない「坂」に着目。江戸に坂が多い理由を解説し、また物資を運ぶ苦労話なども紹介しよう。

 東京23区には現在、確認できるだけで800~900の「坂」があるという。しかも800という数字は名前の付いた坂だけで、無名のものを含めると数千という説もあり、正確にはわからない。

 なぜ、これほど多いのか――。23区の地勢は、広範囲に盛り上がった山の手台地と、江戸川や荒川などの河川によって運ばれた土砂が堆積した低地に大別される。
 山の手台地は標高20mを超えており、一方の低地は20m未満である。

 都市史研究家の鈴木理生(まさお)によると、山の手台地は

・上野台(北区~文京区~台東区)
・本郷台(文京区)
・豊島台(豊島区)
・淀橋台(豊島区~新宿区)
・目黒台(目黒区~品川区)
・荏原台(品川区)

の台地の総称で、各台地の東端を結ぶと、現在のJR京浜東北線・赤羽~品川間とほぼ重なり、この東端のラインを境に西が「山の手」、東が「下町」とされている。

 西側を山の手と呼び始めたのは江戸時代の元禄期(1688~1704)からで、一方の下町は江戸時代初期から埋め立てた地だった。

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