江戸時代の物流現場はバトルロイヤル? 河岸問屋vs船持、利権争いの歴史をひも解く【連載】江戸モビリティーズのまなざし(25)
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壬生と飯塚の争いが勃発
順調に発展したかにみえる思川筋の水運だが、1688(元禄元)年には壬生と飯塚の間でトラブルが発生していた。火種は上り船の荷物の奪い合いだった。
上り船は、塩や鰯粕(いわしかす/肥料)など、山間部の生活に欠かせない必需品を運んできた。壬生では需要の高いこれらの物資が多く荷揚げされたため、当然ながら栄えた。反対に下流にある飯塚は、上り船が通過してしまった。
そこで飯塚の名主(村の長[おさ]のこと)や、有力な問屋・農民10人の連名で訴訟を起こした。訴状には、1675(延宝3)年頃から壬生と飯塚は船荷をめぐって争っていたが、水運取引が増大するにつれて壬生に河岸問屋が続々と新規開業し、利益を独占していると、不満を募らせている。
この訴訟の顛末がどうなったかは、史料がないため、はっきりしない。しかし日本史学者の丹治健蔵は、飯塚は日光東照宮の造営・普請に際しては資材運輸の拠点として重要だったが、思川を遡行する上り船の寄港地には必ずしも適していなかったのではないかと分析し、立地的に不利だった点を指摘する(近世関東の水運と商品取引)。
他の河岸でも、上り船のトラブルは起きた。例えば1698(元禄11)年、冒頭に記した巴波川の上流にある栃木河岸および片柳河岸(ともに栃木市)が、下流の村々を訴えている。
上り船は、水の流れに逆らって川を遡行するため、陸に上がった水夫が船に綱を付けて引っ張る「曳舟」(ひきふね)を行う(江戸モビリティーズのまなざし24「高報酬が支えた江戸の物流魂 エンジンなき時代の人力輸送」参照)。水夫が綱を引く道を、「綱手道」(つなてみち)といった。
だが、下流の村々が川沿い3里(約12km)にわたって、綱手道に木々を植えてしまった。おそらく植樹によって川の氾濫を防ぐ目的があったのだろうが、曳舟には明らかな妨げとなった。そこで伐採し、元に戻してほしいという訴えだった。幕府の勘定奉行・町奉行・寺社奉行による評定所は、
・木を植えた場所は綱手道に該当しない
・農民が田んぼに水を引き入れる妨げにならないように、3月10日~8月20日までは船の運航を禁止する
・やむを得ない場合は、村々と相談せよ
という裁定を下した。栃木河岸の敗訴だった。河岸問屋は領主や幕府に運上金を収め、代わりに特権を得ていた。壬生の運上金は他より格段に高く、公儀には重要な財源だった。それゆえに優遇され、対して飯塚・栃木は冷遇されたのである。