江戸時代の物流現場はバトルロイヤル? 河岸問屋vs船持、利権争いの歴史をひも解く【連載】江戸モビリティーズのまなざし(25)
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乙女河岸の成立は1600~1616年

乙女河岸の成立時期は、はっきりしない。だが、徳川家康の伝記『武徳編年集成』(江戸中期成立)の1600(慶長5)年の章に、次のような記述がある。
1600年、家康は会津の上杉景勝を討伐するため北上し、7月に下野国小山に陣を張った。だが、石田三成が挙兵したことを知り、言い伝えでは急きょ「小山評定」を開いた。その結果、上杉を攻めず8月には江戸へ引き返し、その後、天下分け目の関ヶ原の戦いに望んだ。
『武徳編年集成』は、この引き返す際に家康が乙女河岸から船に乗り、武蔵国の西葛西(東京都江戸川区)に到着したと記す。同じ内容は、幕府の公式史書『徳川実紀』にもある。
『武徳編年集成』『徳川実紀』は家康の功績を讃えるため脚色した箇所も多く、信ぴょう性はいまひとつといわれる。だが、1600年の時点で乙女河岸があったとの記載は。信用して良いのではないかと考えられる。なぜなら1616(元和2)年に家康が死去すると、日光東照宮の造営が開始され、乙女河岸と飯塚河岸が建設に必要な材木を荷揚げし、その後、陸路で日光まで運んだことが、吟味役の証文で確認されているからだ。
少なくとも1616年には、材木を運搬する規模の河岸として整備されていたわけで、そうであるなら16年前に存在していたとしても、おかしくない。
乙女河岸は1686(貞享3)年には、下野国北部の宇都宮から江戸に送る米の輸送に、利用されるようになっていた。当時の宇都宮城の城主・奥平昌章(おくだいら・まさあきら)から、米100俵の輸送を請け負った船運業者の証文が残っている。このことは、米を保管する蔵があったことを意味していよう。
さらに同年には、上流にある壬生・飯塚の河岸から搬送された米が、乙女を経由した証文や手形類も現存し、壬生・飯塚にも湊の機能が備わっていたことを物語る。なかでも乙女河岸は、大量の物資を一度に運べる大型船が停泊できたため積荷が集まり、明治時代まで栄えた。