江戸時代の物流現場はバトルロイヤル? 河岸問屋vs船持、利権争いの歴史をひも解く【連載】江戸モビリティーズのまなざし(25)

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江戸時代、思川筋を中心に発展した河川運輸では、問屋と船持が利権を巡って対立し、頻繁にトラブルが発生していた。中小運輸業者の83%が人手不足に陥る現代とは異なり、17~18世紀の水運では人手が充実していたが、それにより問屋と船頭の力関係が逆転する事態も生じていた。農村生活を支える生活必需品を運ぶ上り船が重要視され、地域ごとの格差が広がっていたことがわかる。

乙女河岸の成立は1600~1616年

『武徳編年集成』は、利根川に架かる栗橋が流されてしまったため、家康が乙女河岸から船に乗って江戸に向かったことを記している(画像:国立国会図書館)
『武徳編年集成』は、利根川に架かる栗橋が流されてしまったため、家康が乙女河岸から船に乗って江戸に向かったことを記している(画像:国立国会図書館)

 乙女河岸の成立時期は、はっきりしない。だが、徳川家康の伝記『武徳編年集成』(江戸中期成立)の1600(慶長5)年の章に、次のような記述がある。

 1600年、家康は会津の上杉景勝を討伐するため北上し、7月に下野国小山に陣を張った。だが、石田三成が挙兵したことを知り、言い伝えでは急きょ「小山評定」を開いた。その結果、上杉を攻めず8月には江戸へ引き返し、その後、天下分け目の関ヶ原の戦いに望んだ。

『武徳編年集成』は、この引き返す際に家康が乙女河岸から船に乗り、武蔵国の西葛西(東京都江戸川区)に到着したと記す。同じ内容は、幕府の公式史書『徳川実紀』にもある。

『武徳編年集成』『徳川実紀』は家康の功績を讃えるため脚色した箇所も多く、信ぴょう性はいまひとつといわれる。だが、1600年の時点で乙女河岸があったとの記載は。信用して良いのではないかと考えられる。なぜなら1616(元和2)年に家康が死去すると、日光東照宮の造営が開始され、乙女河岸と飯塚河岸が建設に必要な材木を荷揚げし、その後、陸路で日光まで運んだことが、吟味役の証文で確認されているからだ。

 少なくとも1616年には、材木を運搬する規模の河岸として整備されていたわけで、そうであるなら16年前に存在していたとしても、おかしくない。

 乙女河岸は1686(貞享3)年には、下野国北部の宇都宮から江戸に送る米の輸送に、利用されるようになっていた。当時の宇都宮城の城主・奥平昌章(おくだいら・まさあきら)から、米100俵の輸送を請け負った船運業者の証文が残っている。このことは、米を保管する蔵があったことを意味していよう。

 さらに同年には、上流にある壬生・飯塚の河岸から搬送された米が、乙女を経由した証文や手形類も現存し、壬生・飯塚にも湊の機能が備わっていたことを物語る。なかでも乙女河岸は、大量の物資を一度に運べる大型船が停泊できたため積荷が集まり、明治時代まで栄えた。

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