高報酬が支えた「江戸の物流魂」 エンジンなき時代の人力輸送! その仕組みと歴史的背景に迫る【連載】江戸モビリティーズのまなざし(24)

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エンジンもモーターもない江戸時代、川をさかのぼる「上り船」は人力で引っ張る重労働だった。利根川や荒川など各地で、人々は川沿いを綱で引いて、賃金を稼ぐために懸命に働いた。下りは1日で済むのに対し、上りは3~8日もかかり、高賃金と3食の白米が保証される生活が支えだった。この物流の要であった曳舟人足の姿は、現代の労働環境を見直すきっかけになるかもしれない。

農村に不足していた日用品を運ぶ「戻り船」

歌川広重画。人を乗せた船を河岸から引く「曳舟」(画像:名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね/国立国会図書館)
歌川広重画。人を乗せた船を河岸から引く「曳舟」(画像:名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね/国立国会図書館)

 河川水運には、船が各地から都市や港へと物資を運ぶ「下り」と、都市や港から各地に荷物を積んで帰ってくる「上り」がある。江戸時代、下りは川の流れに従い、竿(さお)や櫓(ろ)を駆使して船を操ればいいが、上りは流れに逆らって遡航(そこう。川をさかのぼって航行すること)しなければならなかった。エンジンもモーターもない時代、いったいどのように遡航していたのだろう。

 関東地方で栄えた江戸時代の代表的な河川水運は、利根川水運と荒川・新河岸川水運である。

●利根川水運
 上野国(群馬県)利根郡を起点に下総国葛飾郡の関宿(千葉県野田市)を経て、太平洋の銚子へ至る。

●荒川、新河岸川水運
 荒川水運は武蔵国(埼玉県)の西部~関東平野を東に向かい、高尾(埼玉県北本市)、平方(同上尾市)などを経て江戸へ至る。
 川越に起点を置く新河岸川が途中で荒川と合流する水運は、「川越舟運」と呼ばれた。

ほかにも東北の北上川・最上川、北陸の阿賀野川、中部の木曽川・富士川、近畿の由良川、四国の吉野川、九州の遠賀川などが重要な水運ルートだった。

 水運には内陸の各地から河口へ向かって物資を運ぶ「下り」と、下りの終着地から別の荷物を積んで帰ってくる「上り」があった。この上りを「戻り船」(または「帰り船」)といった。

 下り・上りの積み荷には、それぞれ特徴があった。

 下りは各地から運搬する年貢米と特産物を中心としていた。一方、上りの戻り船は、塩・海産物(魚)・衣類・肥料・燃料・資材など、農村で不足しがちな日用品だ。塩は生活必需品、海産物はカルシウムとして摂取すべき食材。衣類・肥料・燃料も農村には足りなかった。

 日本物流学会誌が、全国の戻り船が運んだ物資を記している(第11号・江戸期の河川舟運における川運の就航方法と河岸の立地に関する研究)

・北上川 食塩、古着
・最上川 塩、木綿、鉄、茶、魚
・利根川 大豆、塩、たばこ、かつお節、干物、海藻、鰯粕(いわしかす/肥料)、酒・酢、麻と綿の織物
・阿賀野川 米
・木曽川 塩、干魚、干鰯(ほしか/肥料)、古手(使い古した衣類・道具)
・富士川 塩
・由良川 塩、菜種、干鰯、油糟(肥料および家畜の飼料)、鉄
・吉野川 塩
・遠画川 綿、たばこ、そうめん、鉄、筵(むしろ)、油、鯨油、砂糖

 また、新河岸川の歴史を詳細につづった書籍『川越舟運』(さきたま研究会)は、1805(文化2)年~1851(嘉永4)年の記録として次の積み荷をあげる。

・川越舟運 醤油、油かす、干鰯、綿、炭、屋根板、障子、古いたるなど

 人の暮らしに不可欠な品々であることが一目瞭然。戻り船はそうした物品を農村に届ける重要な役割を担っていたのである。

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