アジアの伝統思想が導く現代社会のレジリエンス【短期連載】なぜいま岡倉天心なのか(1)
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岡倉天心は、『茶の本』で文化財保護やアジアの伝統的価値観の重要性を説いた。国際的な視野と伝統美術の振興こそが、変化の時代に必要とされるレジリエンス(回復力)であると強調している。天心の哲学は、現代の高付加価値観光にとっても重要な教訓を与えてくれる。
日清戦争前夜の旅

天心は、1893(明治26)年7月、古代中国美術を視察するため清国に渡った。
当時、日本と清国の関係は悪化しており、日本国内では「清国討つべし」との世論が盛り上がりつつあった。しかし、天心は宮内省に強力な働きかけをして、この清国旅行を敢行した。このとき、天心がカメラマンとして随行させたのが、絵画科で学んでいた早崎〇(=禾へんに更。こう)吉だ。
日本服のまま清国を旅行することは危険だったため、ふたりは辮髪(べんぱつ)をつけ、中国服を着て約半年にわたる視察旅行を続けた。日清戦争が始まるのは、天心らが日本に帰国したおよそ半年後の1894年7月のことだ。
この清国旅行の大きな成果は、洛陽市南方にある「龍門石窟」を視察し、その価値を発見したことだ。天心の訪問から100年以上のときを経て、「龍門石窟」は2000(平成12)年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録されている。
天心は1902年にはインドを訪れ、アジャンタ、エロ―ラの石窟群を視察している。これらの現地調査を伴った東洋美術、東洋思想への深い理解が、やがて
「ASIA is one(アジアはひとつである)」
で始まる名著『東洋の理想』に結実されるのである。
実は、天心が清国旅行に出ていたとき、東京美術学校図案科教授の福地復一はまるで校長のごとく振る舞い、橋本雅邦と激しく対立していた。やがて、自分が学校から追放されるという危機感を抱いた福地は、1898年になると天心の人格を中傷する怪文書を流して天心を排斥しようとしたのだ。
天心にも隙があった。天心は、恩人でもあった、文部官僚の九鬼隆一男爵の妻波津子との不倫関係にあったからだ。福地による怪文書は多方面に出回り、同年3月、天心は東京美術学校を去らねばならなかった。