アジアの伝統思想が導く現代社会のレジリエンス【短期連載】なぜいま岡倉天心なのか(1)
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岡倉天心は、『茶の本』で文化財保護やアジアの伝統的価値観の重要性を説いた。国際的な視野と伝統美術の振興こそが、変化の時代に必要とされるレジリエンス(回復力)であると強調している。天心の哲学は、現代の高付加価値観光にとっても重要な教訓を与えてくれる。
フェノロサとの運命的出会い

では、天心はいかにしてこのような思想にたどり着いたのだろうか。
天心は1863(文久2)年、元越前福井藩士の岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として、開港まもない横浜で生まれた。天心が最初に身につけたのは漢学や東洋の思想ではなく、
「英語」
だった。天心はわずか8歳で米国人宣教師ジェームス・ハミルトン・バラの塾で英語を学び、ネーティブに劣らぬ英語力を身につけていく。むしろ漢学の素養は遅れていたが、天心は真宗本願寺派の長延寺に預けられ、住職玄導から漢学をたたきこまれた。
天心はアジアの伝統思想を称揚したが、同時に欧米文化も理解していた。彼は、ボストンの社交界で欧米人と堂々と渡り合える、有数の国際人でもあった。
東洋美術へ開眼するきっかけは、東大で教鞭(きょうべん)をとっていたアーネスト・フェノロサとの出会いだ。フェノロサと英語で意思疎通ができた天心は、日本の文化財の研究調査を進めていたフェノロサの右腕となり、通訳兼助手の役割を担うようになったのだ。
東大卒業直後の1880(明治13)年9月には、
・正倉院
・法隆寺
・唐招提寺(とうしょうだいじ)
・東福寺
・大徳寺
の調査に赴くフェノロサの通訳を務めている。こうして天心は東洋美術に開眼、翌10月、天心は文部省へ入省する。ただし、当初の担当は美術ではなく音楽だった。当時の日本は
「西洋に見習え」
という風潮が強く、美術においても西洋の油絵が尊重され、伝統的な日本画を軽んじる雰囲気があった。これに対してフェノロサは、日本美術、東洋美術の価値を見抜いていたのだ。