多摩ニュータウンはなぜ「人口20万人」にとどまったのか? “陸の孤島”から始まった苦難の道をご存じか

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多摩ニュータウンと多摩田園都市は一見共通点が多いのに、結果としては明暗が分かれる形となった。まず、多摩ニュータウンの歴史を振り返る。

バブル崩壊も追い打ち

南大沢駅(画像:写真AC)
南大沢駅(画像:写真AC)

 このため南大沢と橋本の間には途中駅ができないことになってしまい、多摩境駅を求めた町田市と対立することになった。結局ニュータウン開発側が請願駅として追加で駅を造ることになり、開発側の負担がさらに増えることとなった。もめた多摩境駅は路線開業から1年後の1991年に開業している。

 ちなみに余談であるが、京王の橋本駅はJR横浜線をわざわざ乗り越え、その西側に設けられた。実は京王は、橋本からさらに西へ延長する路線免許を持っていて、その構想の準備……というわけでもないらしい。西への延伸計画は1980年代に断念されているからである。

 どうもこれは、高架線の下に商業スペースを設ける目算があったようで、現在京王橋本駅の高架下には、京王資本のスーパーはじめ各種商業施設が立地している。まるで多摩ニュータウンで沿線開発ができなかった意趣返し、というのは言い過ぎだろうか。

 ともあれ1990年ごろに山場を迎えた多摩ニュータウンであったが、1990年代にはバブルが崩壊、2000年には多摩そごうが撤退するなど、開発は順調には進まなかった。2004年に多摩ニュータウンの人口は20万人に達したが、この年に東京都は新住宅市街地開発事業完了を宣言する。住宅公団の後身である都市再生機構も、2006年事業完了を宣言し、多摩ニュータウンの開発は終了した。人口は計画の半分程度にとどまったのであった。

※ ※ ※

後編では、多摩田園都市の開発手法と交通手段について解説する。

主要参考文献(文中に挙げたものを除く)
『東急100年史』(Web版)2022~23年

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