多摩ニュータウンはなぜ「人口20万人」にとどまったのか? “陸の孤島”から始まった苦難の道をご存じか

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多摩ニュータウンと多摩田園都市は一見共通点が多いのに、結果としては明暗が分かれる形となった。まず、多摩ニュータウンの歴史を振り返る。

多摩ニュータウンの鉄道整備

旧由木村の農民が掲げたニュータウン反対の看板。現在の京王堀之内駅付近。大石武朗著・多摩市文化振興財団編『多摩ニュータウン今昔 写真集』より(画像:多摩市文化振興財団)
旧由木村の農民が掲げたニュータウン反対の看板。現在の京王堀之内駅付近。大石武朗著・多摩市文化振興財団編『多摩ニュータウン今昔 写真集』より(画像:多摩市文化振興財団)

 多摩ニュータウンの入居が始まったのは1969(昭和44)年であったが、メインの足となるはずの鉄道はまだ開通していなかった。足が確保されないままの「見切り発車」的入居開始で、当時最寄りの鉄道駅であった京王本線の聖蹟桜ケ丘まではバスで40分もかかり、マスコミから「陸の孤島」と呼ばれるありさまだった。

 なぜ鉄道建設が遅れたのかといえば、乗り入れるはずの鉄道会社にインセンティブが薄かったことがあった。多摩ニュータウンの計画人口である30万~40万人に見合う輸送力のためには、複数の鉄道が必要と考えられ、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)と小田急電鉄が乗り入れることになった(当初は西武鉄道の多摩川線を延伸する構想もあったという)。

 しかし両社とも、自前での鉄道建設には消極的だった。ニュータウン鉄道は、人口の少ない初期は収入が少なく赤字が予想される上に、ニュータウン内は電鉄会社が兼業を自由に展開できない制約があった。

 電鉄が沿線で不動産業などを展開し、電車収入がまだ乏しい穴を埋めることができなかったのである。京王相模原線は1971年にようやく京王よみうりランド駅まで開業したが、肝心の多摩ニュータウン中心部までの工事は止まってしまう。

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