多摩ニュータウンはなぜ「人口20万人」にとどまったのか? “陸の孤島”から始まった苦難の道をご存じか

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多摩ニュータウンと多摩田園都市は一見共通点が多いのに、結果としては明暗が分かれる形となった。まず、多摩ニュータウンの歴史を振り返る。

多摩ニュータウンの計画と現実

『東急多摩田園都市開発50年史』より(画像:東京急行電鉄)
『東急多摩田園都市開発50年史』より(画像:東京急行電鉄)

 1955(昭和30)年に設立された日本住宅公団は各地で団地の開発を進め、「公団住宅」が日本人の暮らし方を現代的なものへ変えるきっかけとなったことはよく知られているだろう。

 しかし住宅公団が団地だけ造っても、交通手段が確保されないと問題が起こる。駅までのバスが混雑したり、駅前の駐輪場がパンクしたりしてしまうのである。そこで総合的な地域開発として、ニュータウンが構想されるようになった。

 きっかけのひとつが1963年の新住宅市街地開発法(新住法)であった。この法律は、大規模な住宅地を造るために整備されたもので、地方自治体が大規模な土地買収を行ってニュータウンを建設することを想定していた。この法をもとに、団地建設以上の街づくりをしたい住宅公団と、当時深刻化していた住宅問題解決のための大規模な住宅地建設を考えていた東京都とが連携、多摩ニュータウンの構想が生まれたのであった。

 多摩ニュータウンのマスタープランは、1963年から1965年にかけて策定された。3000haの広大な用地に、30万~40万人の都市を造ろうという日本最大級のものだった。この地域は主に丘陵地や台地で、そこは薪炭向けの雑木林として使われ、低地では農業が行われていた。

 ところが1960年代に入ると、ガスや石油などの新たな燃料が使われるようになり、薪炭の需要は急速に減少していった。そのため元々この地域に住んでいた農家も、開発に賛成するようになっていった。

 新住法の理念では、地方自治体が大規模な用地をまとめて買収し、公団や自治体が開発を行うことになっていた。しかし一括して土地をすべて買われてしまっては、農家が農業を続けることは不可能になる。一部なりとも農業を続けたい地元との交渉は難航し、結局1969年に一部の地域では区画整理事業によって開発を行うことに切り替えられた。

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