多摩ニュータウンはなぜ「人口20万人」にとどまったのか? “陸の孤島”から始まった苦難の道をご存じか
多摩ニュータウンと多摩田園都市は一見共通点が多いのに、結果としては明暗が分かれる形となった。まず、多摩ニュータウンの歴史を振り返る。
その後の多摩ニュータウン

ようやく鉄道ができ、多摩市との対立も解消した1974(昭和49)年は、しかし石油ショックで高度成長が終わった後であった。その時代の変化を受けて、多摩ニュータウンの開発は量よりも質重視の住宅へと変わっていく。
1980年代後半にはバブル景気の後押しもあり、多摩ニュータウンには新たな施設が立地していった。1987年に多目的文化施設パルテノン多摩が開業、この年に多摩ニュータウンの人口は10万人に達した。1989(平成元)年には百貨店の多摩そごうが、1990年には京王プラザホテル多摩、さらにテーマパークのサンリオピューロランドが完成して、多摩ニュータウンはひとつの頂点を迎える。
この間に京王相模原線が1988年に南大沢まで延伸、多摩ニュータウン西部での開発を加速させた。相模原線は1990年に橋本まで開通し、横浜線に接続した。小田急も1990年に多摩線を唐木田まで延伸している。
もっともこの京王の延長も、もめた事案だった。何しろ予定通りに住民が増えないので相模原線は赤字基調であり、京王は延伸を渋った。そこでP線方式のスキームを拡大解釈して、ニュータウン外の橋本までを「ニュータウンの隣の駅」として延長するという手段が採られたのである。