多摩ニュータウンはなぜ「人口20万人」にとどまったのか? “陸の孤島”から始まった苦難の道をご存じか

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多摩ニュータウンと多摩田園都市は一見共通点が多いのに、結果としては明暗が分かれる形となった。まず、多摩ニュータウンの歴史を振り返る。

開発への混乱

多摩ニュータウンの概要図(画像:都市再生機構)
多摩ニュータウンの概要図(画像:都市再生機構)

 最初から理念通りにはいかず、しかもこの地元との交渉によって開発が遅れ、ニュータウンの入居開始まで時間がかかることになってしまったのである。こうして多摩ニュータウンの開発は、新住法によるものと区画整理によるものとが入り乱れ、新住法も東京都によるもの・公団によるもの・東京都の住宅供給公社によるものの3種があるという、ややこしいことになっていった。これが街の景観にも影響しているといわれる。

 さらに多摩ニュータウン開発でもめたのは、地元住民だけではなかった。地元の自治体とも、インフラ整備の費用負担をめぐって厳しい対立が起こったのである。

 人口の増加に見合ったインフラや学校の整備の費用負担で、ニュータウンを抱える多摩市などの財政は危機に陥った。多摩市はそれらの整備費用の負担を都に求め、1970年には財政問題が解決するまでニュータウンへの入居を認めないという方針を採ったのである。

 この問題は1974年になってようやく、財源措置や土地利用、学区編成などの基本方針を盛り込んだ「行財政要綱」が制定されて解決し、入居が再開した。しかしこの間、1973年には第1次石油ショックが起こって、高度経済成長は終わってしまっていた。

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