東京都心・首都高に息づく「徳川家康」のインフラ整備! 銀座・大手町・日本橋、どうする現代人?【連載】江戸モビリティーズのまなざし(10)
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徳川家康は地方の湿地帯に過ぎなかった江戸を整備し、モビリティを促進した。それが現在の東京に脈々と息づいている。
江戸時代の水路の上を首都高が走る

1606(慶長11)~1612年にかけて開発が続くと、労働者の衣食住を確保するため、宅地建設と食品市場が必要となる。日本橋の市街や、魚河岸(江戸時代は日本橋にあった)は、そうして形作られていった。家康の計画通り、商業活動も活発になっていく。
町をさらに発展させたのは、船入堀といった海からの入り口と、そして水路だった。前述の道三堀も船入堀である。
今はすでに埋め立てられてしまったものが多いが、江戸は船の入り口および水路が縦横無尽に巡った都市であり、これによって物資の運搬が容易だったのである。
そして、この船入堀や水路が、昭和の高度成長期に重要な意味を持つことになる。高速道路を水路の上に造ったのである。
1964(昭和39)年の東京オリンピック開催が決定すると、首都高速道路の建設が緊急の課題となった。だが、高速は当時、公共用地の上に建設するのが原則だった。このため用地買収の必要がない、江戸時代からある水路の「上」に着目したのである。
その結果、京橋川、汐留川といった水路は埋め立てられた。江戸前島の船入堀も姿を消し、その上に江戸橋ICから京橋ランプが走っている。
だが、一部は水路の上に高架式で建設した。その一例が日本橋川の上の首都高だ。高度成長期には、日本橋川にまだ船が頻繁に往来していたからである。
時を経て、今度は首都高を地下へ移動させる計画が進んでいる。完成は2040年の予定。同時に江戸時代から残る水路が、青空のもと、新たな姿を見せることになるだろう。