大坂はなぜ「天下の台所」と呼ばれたのか? 水運で繁栄した美しき水の都をひも解く【連載】江戸モビリティーズのまなざし(6)
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水運の中継地・大坂
江戸時代、大坂は摂津国(せっつのくに)の沿岸にある都市だった。摂津の「津」は港のこと。全国から船で運んできた物資を、集積する港を持つ地が摂津であり、大坂はその要。当時の日本で最も重要な水運の中継地であり、大阪と江戸、さらに全国を結ぶモビリティーズとして不可欠な存在だった。
「大坂に日本第一の湊(みなと)あり。秀吉公在城せられしより猶(なお)おいおいこの湊繁昌して日本国中の米穀(べいこく)及び外産物(他の産物)までも、皆この地に渡海、運送、交易せざる」
18世紀後半~19世紀初めの経世家・本多利明(ほんだ・としあき)が著した『経世秘策』の一節だ。大坂には豊臣秀吉が治めていた頃から「日本一の湊」があり、秀吉が整備した港とモビリティーズの基盤を徳川幕府が継承し、さらに発展したと解説している。
秀吉のインフラを引き継いだ徳川
歴史を簡単に見ていこう。
1583(天正11)年、秀吉は大坂城を築くと同時に、日本各地で生産された米や産物を大坂に運ぶため、船着き場などの整備に着手。「日本一の湊」とは、このことを指している。だが、秀吉が没し、大坂夏の陣(1615〈慶長20〉年)で子の秀頼が徳川家康に敗れ、豊臣は滅亡する。秀吉が築いた港湾建設の基盤は、徳川に引き継がれることになる。
徳川幕府は1683(天和3)年、土木事業家の河村瑞賢(かわむら・ずいけん)に、河口にあった島の開削を命じた。九条島という名の島だった。大坂は水害が多かったため、島を南北に貫く新しい川と堀を造成し、増水した際の水が海に流れやすくなる計画を立てたのだ。瑞賢は命令をなしとげ、川は「新川」と呼ばれた。湾につながったこの新しい河川が、後の安治川だ。
1696(元禄9)年の絵図は、新川(安治川)を「幅四十間」(約72.7m)と記している。開発の開始から13年後には、広い川幅を持つ河川が誕生していたことがわかる。この川幅は、大型帆船が十分に運航できる広さだった。