地方都市の区画はなぜ「江戸時代」のままなのか? 徳川家康が築いた名古屋城下から考える【連載】江戸モビリティーズのまなざし(8)
- キーワード :
- 道路, 江戸モビリティーズのまなざし, モビリティ史
過去の町割を踏襲する地方都市
日本には、全国至る場所に城下町がある。城は江戸時代、一定の石高(こくだか。米の収穫高を示す単位)を満たした領地を持つ大名に、持つことが許された。基準は諸説あるが、歴史学者の山本博文氏は、「2万石以上でないと城は持てず」(『古地図から読み解く城下町の不思議と謎』実業之日本社)としている。城を持つ者を「城持(しろもち)大名」という。
城持大名たちは、城を中心に町づくりを行い、城下町を築いた。城下町にはさまざまなタイプがあるが、共通しているのは武士の屋敷が城を囲み、その外を庶民が住む町人地とする。さらに、町の外れに寺を置く。武士・大衆・僧侶ごとに、居住するエリアを区分した町割(まちわり。区画)である。現在の地方都市は、この町割をほぼ踏襲しているケースが多い。
過去がそのまま活用されているのは、先人たちのレガシー(遺産)が現代に通ずるほど有益だったからに他ならない。今回はそうした中から名古屋城下を取り上げ、現代のモビリティにどう生かされているかを見てみよう。
「尾張名古屋は城でもつ」
なぜ、名古屋かといえば、2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が整備した城下町が存続しているからだ。
「尾張名古屋は城でもつ」
と、民謡『伊勢音頭』にうたわれた。この一節には、名古屋は家康の築いた城によって繁栄したという意味がある。
まず、名古屋城下の歴史について簡単にふれる。家康が天下統一を果たす以前、尾張には織田信長が君臨し、国の中心は名古屋ではなく清須(きよす)だった。
家康は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利すると、1603年、江戸に幕府を開く。次いで、江戸と京都・大坂を結ぶうえで重要な要衝だった名古屋を重視し、1609年に築城を開始した。わずか1年あまりで、天下普請(てんかぶしん。諸大名に命じて行った城の建設)で名高い名古屋城が完成した。
さらに尾張の中心を清須から移し、清須城は廃城となる(現在は復元)。これを「清須越(きよすごし)」という。前述の山本博文氏の著書によれば、
「3つの神社、120の寺院、67の町、武士・町人合わせて7万人を強制的に移住」
させた大規模な計画だった。橋までも清須から移築するほどの徹底ぶりだったと伝わっている。こうして城下の基盤が形作られていった。