自動車国産化への飽くなき情熱! 大正時代の大衆車メーカー「白楊社」、関東大震災が無かったら日本を席巻したかもしれない
大正元年に設立されたある会社が、日本にとって初となる純国産大衆自動車の量産化に挑んだ。高く評価を受けたその1台は、なぜ昭和の表舞台から姿を消してしまったのだろうか。
大衆自動車の量産化に挑んだ男

日本において水力や風力以外の機械的動力を備えた乗物が最初にお目見えしたのは、おそらくペリーが乗って来た黒船(蒸気船)だろう。
その後、蒸気船は幕末の混乱の中で諸藩が欧米から購入するとともに一定数の勢力となった一方、明治に入ってからも国産化にはほど遠い状況だった。
これは、明治以降に導入された蒸気機関車もまた同じである。これら蒸気動力の船や機関車を、安定した品質とともに純国産化できたのは明治末期頃のことである。
一方、明治末期という時代には、日本には蒸気自動車をへてガソリンエンジンを使った内燃機関自動車がお目見えすることなる。
だが、安いレンジのモデルでもその価格は庶民の年収以上と極めて高価であり、顧客の大半は官公庁、タクシーや運送などの営業用、そしてごく一部の富裕層に限られた。時が大正時代に入っても、自家用車を中心としたモータリゼーションなどは夢のまた夢だったことは否めない。
そんな時期に、日本の道路事情に即した純国産大衆自動車の量産化に挑んだ会社があった。それが白楊社である。
1912(大正元)年に白楊社を設立した人物の名を、豊川順彌(とよかわ じゅんや)といった。